粃 ――シイナ――
「!」
目を開き、額を押さえる。
「なん……だ、今のは……」
ノイズに混じった黒い光景。養父ではない影。
(誰の、記憶だ……?)
覚えのない記憶が混在している。
振り返って主の部屋へ目を向ける。閉じた障子の向こうでは衛宮士郎が眠っている。
「衛宮士郎の記憶、なのか?」
見覚えのない人影。
「あれは誰だ」
首を捻る。
記憶を辿っても、人であった時の記憶などもう残ってはいない。あの大火災の記憶くらいしかもう私には残っていないのだ。
思い出そうとしても思い出せない苛立ちに、苦いため息をこぼすしかない。
「誰だ……、誰の記憶だ……」
夜空に問いかけても、答えなどなかった。
「衛宮士郎」
呼ぶと衛宮士郎は台所から振り返った。
(呼んでみたものの、どう言えばいいものか……)
私がそれきり何も言わないので、
「なんだよ?」
と、衛宮士郎は顔を顰めた。
こいつにそんな顔をされると腹立たしいこと、この上ない。
「……あの日のことで、覚えていることはあるか?」
「はい? なんだ急に? えっと、そりゃ親父が助けてくれて、命拾いしたってことだけど?」
“あの日”だけで通じてしまうことには苦笑をこぼしたかったが、予想通り養父に救われたことだけだ、と衛宮士郎は答えた。
「それが、どうかしたか?」
「いや、それならば、いい」
首を傾げる衛宮士郎をそのままに、居間を出た。
何事かを必死な顔で言い聞かせる瀕死の女性、その胸に抱かれた黒い塊。
黒い記憶の断片が、赤い記憶にフラッシュバックする。
これは、いったい誰の記憶か。
そんな疑問をずっと抱えている。
日を追うごとに、記憶の断片が増え、鮮明になってきている。
瀕死の女性が抱えている黒い塊は人であったもののようだ。それも子供。ちょうどあの頃の衛宮士郎と同じ年頃のように見えた。
うんざりとして目を開く。目頭を手で揉み、ため息をついた。
嫌な光景だ。
忘れてはならない光景だが、こうも息苦しい感情とともに見るのは気が滅入る。
息苦しいのは、衛宮士郎がそう感じているからだろう。
この記憶は、衛宮士郎にとっても、紛れもない苦痛だとわかる。
ならば見るなと言いたい。
だが、夢で見るものをどうすることもできはしない。
「助けようとした誰か、か……?」
つい、夢の中の女性の正体に思考を向けてしまう。今さら真実など知ったところで、過去など変えようがないのだが、知りたいと思うのは、人として、いや、人であったものとしての純粋な欲求だろう。
夢を見続けるうちに、その女性が、他人ではないように見えてくる。だとすれば彼女は衛宮士郎の肉親の女性、一番近しい女性と言えば、母親、か……?
何かを必死に訴える女性は血と煤にまみれ、その頬を涙が筋を引いて流れていた。
「母……親……?」
疑問ばかりが浮かぶ。
私の記憶が曖昧なだけに、それが誰か、などわからない。幾度目かも知らぬため息をこぼす。
衛宮士郎から流れてくれる重苦しい夢に、毎夜苛まれる。
正直、そろそろ限界だ。
「訊いてみるか……」
あまり話したくはないことだ。
私も、おそらく衛宮士郎も、あの日のことはほじくり返したくはない。
だが、腑に落ちないのが気にくわない。
こちらが黙っていれば衛宮士郎は何も言わないだろう。
私が毎夜お前の夢に苛まれているのだ、と言ってやらねば、そんな事態に陥っていること自体、気づいていない。
「仕方がないか……」
自分で自分の責任を取れ、とアレは言った。
ならば、これも、その一環と捉えればいいのか。
私の方から訊くのが、どうも納得がいかない気もするが、いつまでもこんな夢を見続けることはごめんだ。
仕方がない。
腰を上げることにした。
「アーチャー」
衛宮士郎が縁側から外に顔を出して私を呼んでいる。
どこに向かって声をかけているのやら……。
「何をしている」
「うわあ!」
背後から声をかけると、衛宮士郎は跳び上がりそうになった。いや、実際、飛び退くように振り返った。
「や、屋根に、いるんじゃ」
天井を指さしてアホなことを言っている……。
「何を言っている。そんなわけがないだろう」
「は?」
「屋根の上など、野良猫でもあるまいし……」
「は? だって、屋根の上にいるって、セイバーが、前に言って……」
目を据わらせると、衛宮士郎は声を萎めていく。
「自らのサーヴァントの気配もわからないほど鈍いとはな……」
鼻で笑ってやると、衛宮士郎は悔しげに唸っている。
「屋根の上で日がな一日過ごすなどできるものか。霊体ならまだしも、実体では人目にもつく、常識で考えろ、たわけ」
「じゃ、じゃあ、お前、どこにいるんだよ」
「別棟だが」
「おま、お前、勝手に!」
「お前に、どこぞに居ろと決められたわけでもない。どこにいようと私の勝手だろう」
「あ……、そ……、そうだな……」
何やら衛宮士郎は申し訳なさそうな顔をしている。
「俺……、お前に何も……」
衛宮士郎は握った拳を震わせている。
何が気にくわないのか、こいつは。
「なんだ、勝手に部屋を使ったことが気に障ったか? ならば通常機能が発揮できるほどの魔力をさっさと提供できるようになることだな」
「い、言われなくても、なってやる!」
ふい、と背を向け、衛宮士郎は自室に向かって歩き出した。
「おい、何か用があったのではないのか」
呼び止めると、ぴた、と足を止めて、くるりとこちらに向き直った。
自分が呼んだことをすっかり忘れていたようだ。愚か者め。
俯いたままで、衛宮士郎はムッとしたまま、ぼそぼそ、と口を開いた。
「な……なんか、……あったのか?」
首を捻る。
「何か、とは、なんだ」
質問の意図がわからない。
「な、なんか、様子が変だから、なんか、あったのか、と思って……。俺は、言ってくれないと、気づけない、から……」
尻すぼみになっていく衛宮士郎の言葉に、ようやく意味がわかった。
ため息とも、笑いとも取れない息がこぼれる。
「は……、それは、失態だったな。貴様にまでわかるほど、表に出てしまっていたか……」
自嘲してしまう。
それほど私は気になっていたのか。まあ、こいつに話を訊こうとまで思っていたから、仕方がないか。
まさか衛宮士郎の方から話を振ってくるとは思っていなかったが……。
「やっぱり、何か、あったのか?」
衛宮士郎がすぐ前まで来て、真っ直ぐに見上げてきた。
少々驚く。
こんな心配そうな顔で見られると、何をどう言えばいいのやら……。
琥珀色の瞳が私を見つめている。
(こんな色だっただろうか……)
私の目は、いつ、曇っていったのだろうか……。
「アーチャー?」
呼ばれて瞬く。
言葉もなく見つめてしまっていた。
「い、いや……」
衛宮士郎の表情に不安げなものが混じっている。
(言い逃れはできないか……)
少し目を逸らした。この瞳にじっと見つめられるのは、どうにも落ち着かない。
「…………夢を、見る……」
「夢? アーチャーの?」
「いや、お前のだろう。あの日の夢だからな」
目を瞠った衛宮士郎は、琥珀色を揺らし、拳を握りしめた。
「ごめん……」