姫様の砂糖菓子
「……じゃあ、おじさまもリズさんに相談したんでしょうか」
「たぶんね」
おじさまよりも幾分若く、それなりに愛想の良い男は小箱の蓋を閉め、急に眉根を寄せた。
「ルフレさん?」
「……考えたら、本人に訊いた方が早かったのか?」
「あ、私ですか」
「うん。覚えてるか、昔の絵本。最初の頃に読んだ奴とか」
「……ちょっと覚えてないです」
「そうか、残念」
言うなりルフレは立ち上がり、ふらふらとルキナの側に歩み寄ると床に膝をついた。太股に頭を乗せられて、お茶を頭に零しますと言えば零していいよと返事が返ってくる。知らぬ間に冷めたお茶を慌てて飲み干し、ルキナはカップを持たぬ手でルフレの頭を抱え込んだ。
ルフレが顔を押しつけているのは、厳密にはルキナの太股ではなく、腹部だ。今はまださっぱり目立たないが、あと半年ほどすればこの家に暮らす人間がもう一人増える事になっている。
「ルキナは、俺にたくさん幸せをくれたんだろうな」
「あら、過去形ですか?」
「おじさまも、結構幸せだから」
膝の上で小さく笑い声が響き、ルキナは数度瞬くと彼に聞き返した。
「おじさまの事、分かるんですか? ……あの、記憶が混ざってるとか」
「そういうのは無いよ。そうじゃなくて……俺がおじさまだから。今、王城で」
「……ああ」
「言葉も早いし達者で元気なお姫様だ。さすがルキナだな」
「その褒め方、何だか変ですよ」
「そうか? ……うん。でも、ルキナのおじさまも幸せだったと思うよ」
同じ事を考えていたみたいだし。そう呟くルフレの頭を撫でて、ルキナは視線を机上に取り残された小箱へ向けた。
幸せな少女時代を過ごす幼いルキナは、これから市井の飴菓子がつまった小箱とリズ仕込みの絵本を楽しみに、ルフレの執務室をたびたび訪れる事になるのだろう。記憶を失ったルフレはややつっけんどんな所もあるが愛想はほどほど人並み、子供に合わせた表情も作れるし、何を考えているか分からないなどという事はあまり無い。この時代の小さなルキナは、単に寒がっているルフレが機嫌悪くしていると勘違いする事もないだろう。
「ルフレさん」
「ん?」
「私、読みたい本があるんです。今度、探してきて下さいませんか?」
「ああ、いいよ。題名は?」
「……ちょっと、分からなくて。続き物の物語本で、二冊目なんです。一冊目のあらすじは覚えています。子供向けでもなくて、たぶん大人向けに書かれた娯楽小説の類で」
「ふーむ。後で詳しく訊かせてくれるか?」
「はい。あ、あと」
「ん?」
「花の形をした砂糖菓子も、食べてみたいです」
「……そっちのヒントは?」
「ありません!」
笑顔のルキナを見上げ、ルフレはわざとらしく溜息をついた。
「なかなか難題を言いなさる、我が家のお姫様は」
そう言いながら、彼は必ずルキナの求める物か、それに近いものを探し出してくるだろう。大切にされているのだという事実は片時も疑った事が無い。
宙ぶらりんに揺れていた空のカップをルキナの手から取り上げ、ルフレは再びふらりと立ち上がった。最近少し痩せた気がする。きっと城に詰めている間ろくに食事をしていないからだろう。最近処理すべき問題が多く重なり、彼は二日に一度しか家に戻ってくる事ができない。そして在宅の間もほとんどこうして書斎に引きこもっているのだが、それでも戻って来るのはルキナの顔を見るためなのだ。
「ルフレさん」
「ん?」
「あまり、無理しないで下さいね。それと、ご飯もちゃんと食べて下さい」
「あー、うん。分かった、気をつける」
「身体に気をつけて下さい。何かあってからじゃ、遅いんですよ」
「うんうん」
「約束ですよ。ちゃんと本を取り寄せて、花のお菓子ももう一度食べたいです」
「……この箱に入れて?」
「それは、姫様のために用意した箱でしょう」
「そうだな。ルキナのために、もう一つ用意しよう。花の砂糖菓子を入れて、読みたい本の続きと一緒に」
薄らと笑みを浮かべると、遠い記憶の中で僅かに口元を持ち上げた面立ちとよく似ている。――当たり前だ。
気づけばルフレは再びルキナの側に立ち、今度は座ったままでいたルキナの頭をかがめた胸元に抱え込んだ。
「ルフレさん。……おじさまは、幸せだったと思いますか?」
彼の最期は、あまりにも残酷だった。それでも彼とページを繰った数年間、彼の日々は穏やかだったのだと信じたい。あの日、敵わなかった約束を交わした彼は、確かに少しだけ笑っていたはずなのだ。
背に回された手がルキナの髪を撫で、肩から力が抜ける。『おじさま』ではないルフレの唇がルキナのこめかみを掠め、耳元にぼそぼそと言葉が落ちた。
「もちろんです、姫様」
「……はい」
「私としては少々悔しいですが、必ずお望みの品々をお持ちするとお約束しますよ」
「え?」
喉の奥で音を立ててルフレは笑い、髪を撫でる手がぽんとルキナの背を叩いた。
きっと近いうちに、この家に懐かしい本の続きともう一つの小箱、それに入った砂糖菓子が持ち込まれる事だろう。それらはルキナの記憶にあるものとは装丁や意匠、味や形が少しずつ違うかもしれない。
だが、それでいいのだ。いつか叶わなかった約束を今叶えようとしてくれている、優しい彼はルキナのおじさまではないのだから。