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冷たい指先と、熱い涙

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 外へ出ると陽はすっかり落ちていた。
 幾多の窓からは温かい灯りと笑い声がこぼれ、宵のピドナは世界の中心都市の名に相応しいにぎわいを見せ始めている。
 家路を急ぐ者や、ほろ酔いの人々が行き交う中を、ノーラは重い足取りで歩いていた。
 柔らかな夜風が彼女の頬を優しく撫でるが、銀行を出てからその顔はうつむいたまま一度も上げられることはない。
 気鬱なままようやくレオナルド工房にたどり着いたノーラは、後ろ手に扉を閉めるなり、腰の小物入れから煙草を取り出して火を点ける。ため息とともに煙を吐き出すが、憤りと不安は胸に重く溜まったままだった。
 工房からの階段を誰かが登ってきた気配を感じ、ノーラは顔を上げた。姿を見せたのはケーンだった。
「あんた、まだいたの。職人のみんなはもう帰ったんでしょ?」
 乱暴な口調で言ったノーラだったが、ケーンの顔に引きつるような緊張があるのに気づき、眉をひそめた。
「どうしたんだい?」
「下に、親方が……」
 ノーラは息を呑んだ。
 指の間から取り落としそうになった煙草を乱暴にもみ消し、ケーンの横をすり抜けて階段を駆け下りる。
 工房脇の机の前に親方はいた。
 机の引き出しを閉め、ノーラを見てぎこちなく微笑む。頬の無精髭には白いものが増え、落ち窪んだ目をした親方はとても、疲れているように見えた。しかし、ノーラの胸には安堵が広がった。
「親方」 
 十五歳の時に正式に父親の弟子となってからは職人たちと同じように親方と呼び、けじめをつけている。だが今は一年ぶりに会えた喜びに、満面の笑みが浮かんだ。
「お帰りなさい」
 その言葉を聞いた途端、親方の顔から笑みが消えた。
「いや、まだ戻ってきたわけじゃないんだ」
 足を止めて、ノーラは顔を強ばらせた。黙って親方の次の言葉を待つ。
 眉間に皺を寄せて、親方は言った。
「まだ、聖王の槍を取り戻せていない。各地を探し回った挙句、聖王の槍がここ、ピドナにあるという情報を得たから寄ったまでだ。またすぐに行かなければならない」
「この町に?」
 ノーラは目を見開いた。またすぐに出て行くという親方の言葉に不安なものを感じた。急き込むようにノーラは言った。
「どこにあるの? 誰が持ってるの? あたしも一緒に行くよ」
「いや、だめだ」
 鋼を断ち切るような強い口調だった。
「一人で行くという約束で、槍を取り返す手はずになっている」
「…………」
 親方の表情の厳しさに、ノーラの胸の不安はますます大きくなった。裏取引のようなものに親方は関わろうとしているのだろうか。それに危険は伴わないのだろうか。
 心配そうに見つめるノーラに、親方は力強く頷いてみせた。
「大丈夫だ。信頼のおける情報だということは分かっている。ごく近いうちに必ず、槍を手にして戻ってくる。心配することは何もない。これで終わりだ」
 親方が不在の間、工房には様々な問題が持ち上がっていた。売上の減少に、職人同士のいざこざ、足元を見られた仕入の値上げ。
 だが、今、問題の数々を訴えたところで、心配させるだけだと思い直したノーラは、小さく頷いた。
「分かった。待ってるから」
 娘の様子に何かを感じたのか、親方は口を開きかけたが、思い直したのかためらいつつも微笑んだ。
「全て終わったらゆっくり話を聞こう」
「はい」
 ぎこちなくノーラも微笑みを返す。
 親方は頷き、歩き出した。
 階段の下で突っ立っているケーンの肩を叩き、「もう少しの辛抱だ。後を頼んだぞ」と声をかける。
 ゆっくりと階段を登っていく親方の後ろ姿を、不安な気持ちでノーラは見送った。
「大丈夫ですよ」
 階段上で扉が閉まる音がした後、ノーラを振り返ってケーンは明るく言った。
「親方が大丈夫といえば、大丈夫ですよ。親方が戻ってくれば、ここも前のように活気ある工房に戻りますよ」
「……そうだね」
 物憂く言いながらノーラは傍にあった椅子を引き寄せて、腰を下ろした。再び煙草に火を点ける。ためらうようにケーンは聞いた。
「銀行の方は、どうでした?」
 横柄な態度をした銀行員とのやり取りを思い出し、ノーラは荒々しく煙を吐き出した。
「親方不在のまま、融資を続けることはできない、だってさ。新しく保証人を立ててこいって言われた」
「そうですか……。でも、親方が戻ってきたことを知れば、以前のように融通してくれますよね」
 黙ったまま、ノーラは頷いた。親方が戻ってきてくれれば、問題は全て解決するに違いない。レオナルド工房はまた、世界一の武具工房に戻るだろう。
 だがノーラの心は暗くふさぎ込んだままだった。
 ゆっくりと階段を登っていった親方の背中を思い浮かべる。本当に、あのまま行かせてもよかったのだろうか。
 煙草の火を見つめながら考え込んでいたノーラの耳にケーンの声が聞こえた。
「みんなも親方が無事だって分かれば安心するでしょうね」
「ケーン」
 思った以上にきつい口調になったことに気づき、ノーラは慌ててケーンに微笑んでみせた。
「あのさ、親方が帰ってきたことはみんなにはまだ内緒にしておこう。槍を手に、本当に帰ってくるまでさ」
 ノーラの言葉にケーンは怪訝そうな表情を浮かべたが、すぐに頷いた。
「そうですね。その方が喜びも大きいですね」
 曖昧にノーラは頷いた。
 今のこの不安が懸念であることを祈りながら、冷たい指を強く握り締めた。

作品名:冷たい指先と、熱い涙 作家名:しなち