冷たい指先と、熱い涙
五年前、クラウディウスのクレメンスが暗殺された直後、リブロフ軍は怒涛の勢いでピドナに侵入し、たちまちのうちに武力によって町を制圧した。勢いのままにリブロフ軍は、ピドナの主だった有力者や資産家の家に入り込んで武器や財産を没収し、世界の中心都市ピドナは混乱に陥った。
醜聞が広まることを恐れたルートヴィッヒは、ピドナに到着するとすぐさま事態の収拾にあたった。しかし、その時にはすでに、象徴として工房に飾られていた聖王の槍はレオナルド工房から姿を消していたのであった。
アラケスの魔槍を聖王とともに鍛え直したという由緒ある槍を奪い返さないかぎり、世界一であるという工房の誇りは取り戻せないと考えた親方が、聖王の槍を探す旅に出たのがちょうど一年前のことだった。
「この話をするのはこれが最後だ。二度と同じ話を蒸し返すな」
親方がノーラとケーンの前から去って三日目の夕刻だった。
掃除や道具の手入れをしている職人たちの中で、年老いた職人頭は傲岸な口調で怒鳴った。そのまま、目の前に立つ工房長の返事を聞かぬままに、荒々しい足取りで工房を出ていく。
怒りで顔を蒼白にしながら、工房長は露骨にため息をつき、ぼやいた。
「そうは言ってもこの町を実質的に支配しているルートヴィッヒ様の注文を受けない訳にはいかないだろう。久々の大口注文だ。そりゃ、亡くなられたクレメンス様には数々の恩義がある。だがその恩義のために、この工房を傾けさせることはできない」
聞こえよがしに言いながら工房長は帳簿を机に仕舞う。
「一番の古株だか何だか知らんが、頑固もいい加減にしてもらわないとな」
吐き捨てるように言うと工房長もその場を後にし、残された他の職人たちも気まずそうに顔を見合わせ、帰り支度を始める。
火箸を手に、部屋の隅で短剣を研いでいたノーラのもとにケーンが来た。
「職人頭と工房長、二人ともいい年して子供みたいですね」
雰囲気を和ませようと明るく言ったのだろうが、ノーラは顔をあげようともしなかった。そんなノーラに構わず、ケーンは傍にあった油差しを手にしながら話を続けた。
「それにしても頭が痛いですね。クレメンス様の恩義を忘れるわけにはもちろんいかないけど、ピドナの実権を握っているルートヴィッヒを無視することもできないですし」
「クレメンス様、か……」
ようやくノーラは手を止めて、ぼんやりとつぶやいた。
「あの方のお嬢さんは、まだ見つかってはいないんだね」
ケーンはノーラを見た。
「そういえば、ノーラさんと年はあまり変わらない娘さんがいらっしゃいましたね。お名前は、ええっと……」
「ミューズ様、だよ」
短剣を台に置きながらノーラは言った。
「お会いになったことがあるんですか?」
「二、三度ね」
工房の隅に置いてある銀色の鎧に目を移しながら、ノーラは頷いた。
「初めてお会いしたのは親方と一緒に、お屋敷に試作品をお持ちした時だった。まだ正式に親方の弟子になる前だったから、十二、三歳の頃だったかな。お茶の仕度ができたことを知らせに来られたんだよ。私たちがいることを知らなかったのかびっくりされたようだったけど、どうぞご一緒にって呼んでくださった。美しい中庭で食べたミューズ様手作りの焼き菓子は、それまで食べたことのないような上品な味だった」
「へぇ、やさしい方なんですね」
「見たこともないようなきれいな子で、ろくに身なりを構わない自分のがさつさが恥ずかしく思えたよ」
守ってあげたくなるような可憐な美少女だった。父親を亡くし、住む場所を失い、今はどうしているのだろうとノーラは胸が傷んだ。同時に、三日前に工房を後にした親方の背中を思い浮かべる。
顔を上げ、ノーラはまっすぐケーンを見た。
「あのさ、親方を探しに行こうと思う」
「いいですね、ぼくも行きます」
間髪をいれずにケーンは言った。ノーラの意志を尊重して今まで口に出さずにいたのだろうが、ずっと気に掛かっていたに違いない。
「この町におられることは間違いないんですし、思い当たる場所を手分けして回りましょう」
ノーラが頷いたその時だった。
作品名:冷たい指先と、熱い涙 作家名:しなち