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冷たい指先と、熱い涙

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 親方の葬儀の後、悲しみを押し殺してノーラは仕事をこなしていた。一年間、親方不在でも工房は回っていた。しかし、不在と死没は違う。レオナルド工房はもうだめだという噂もピドナの町をひそかに飛び交っているという。
 また、正式な後継者を定めておかなかったということも、関係者の不安を煽っていた。
 もちろん、親方の一人娘、ノーラがいる。女でありながら、男に負けぬほどの腕を持っているということは周知の事実であったが、まだ若過ぎた。血が繋がっているというだけで、経験も乏しい娘が背負えるほどレオナルド工房の看板は軽くはなかった。
 それでも、必死に工房を守ろうとしているノーラであったが、その努力は空回りになりつつあった。最初にその兆候が現れたのは、葬儀が済んでわずか五日目のことであった。
 倉庫で在庫の確認をしているノーラの元に工房長がやって来て、言った。
「ノーラちゃん。悪いけど、今月一杯で辞めさせてもらうよ」
 ノーラは目を見開いた。
「なんで? 親方が死んだ今、いちばん大事な時なんだよ。レオナルド工房の存亡の危機がかかっていると言っても過言じゃないよ。辞めるなんて言わないで助けてよ」
 工房長は気まずそうに目をそらした。
「別の所から来てくれないかと誘われたんだ。ほら、スタンレーで武器工房をしているところがあるだろう? あそこの経営者から」
 港でノーラに話しかけた同業者だった。応援しているなどと言いながら、職人の引き抜きをしてきたのだ。かっとなったノーラは怒鳴った。
「なんでそんなことが言えるの? 親方が死んだ途端、さっさと見切りをつけるってわけ? 薄情にもほどがあるんじゃない?」
 工房長はふてくされたように言った。
「そりゃ、俺だって、こんなことはしたくないさ。だが、親方がいるならともかく、このままじゃあの頭の固い職人頭の言うことを聞くしかないだろ? あいつの言いなりになるのはごめんだ」
「だからって……」
「あいつが辞めたら、おれは辞めないよ。だがあいつが親方気取りでのさばるようなら俺は一緒に働けない」
「…………」
「親方には返せないほどの恩がある。だがこのまま俺がいては、工房の雰囲気が悪くなるだけだ。悪いが分かってくれ」
 それをきっかけに、次々と職人たちは工房を辞めていった。
「聖王を助けた鍛冶職人レオナルド様の末裔であり、世界一の腕を持つと言われた親方がいたから、リブロフから来たんだ。親方がいなくなった今、ここにいる理由はなくなった」
「生まれつき体の弱い娘の薬代がかかることは知ってるだろう? ウィルミントンに行けば、貴重な薬が安く手に入るんだ。申し訳ないが、辞めさせてもらうよ」
「こんな人数で、いい武具など作れるはずがない。聖王の槍がなくなった工房は、同時に信用もなくなったんだ。おれだって悔しいが、仕方ないんだ」
 そうして、ケーンを除くすべての職人はレオナルド工房からいなくなった――。

「まただめだ!」
 閑散とした工房で、ノーラはひびの入った刀身を見て舌打ちした。火の上がりが強く、焼き過ぎてしまったのだ。鉄は焼くと硬くなるが、焼きすぎると粘度がなくなり、今度は脆くなってしまう。
 焦りと不安の中、このところ失敗続きだった。不甲斐なさにノーラは唇を噛み、立ち上がった。
「ノーラさん!」
 ケーンの言葉を無視し、乱暴に槌を置き、荒々しい足取りで工房を後にする。階段に人影があった。見覚えのない数人の男女だった。
 上の店には誰もいないため、客がここまで降りてきたのだろう。乱暴にノーラは言った。
「今日は店じまいだよ」
 返事を聞かぬままに階段を駆け上がり、外へ出る。
 路地裏まで走ると壁を背に、ずるずると砂埃の舞うその場に座り込む。
 父親が、先祖が、代々守ってきた工房を、このまま廃れさせてしまうことが情けなかった。
「どうしたらいいんだよ」
 膝を抱え、項垂れたままノーラはつぶやいた。
 涙が頬をこぼれ落ち、膝の上に落ちる。
 親方が死んでから初めて流す涙だった。もう限界だった。
 弱みを見せまいとずっと我慢していた涙は、後から後から溢れ出た。
 幼い頃から男勝りにしっかりしていると言われていながら、実際はこの有様だ。お父さんがいれば大丈夫だと安心しきっていた幼い頃と変わらない。
「ごめんなさい……お父さん」
 何年かぶりに、『親方』を『お父さん』と呼び掛けた途端、ますます涙は止まらなくなった。
 燃え盛る火を背に、力強い槌の音を響かせる父親の逞しい背中を思い出す。
 妥協を許さず、仕事に熱心で、職人たちを常に気にかけていた厳しくて頼もしい父親。
 ノーラ自身、素晴らしい武具を作りたいと励むその先には、世界一の名工である父親に認められたいという願いがあった。
 まだまだ教えてほしいことも、たくさんあった。
 そんなノーラを、女だからと容赦はせずに他の職人同様に厳しく鍛えながらも、陰ではいつも守ってくれていた。急がせることはないと、親戚たちの反対を押し切って結婚話をひそかに断ってくれていたという話も聞いたこともある。
「お父さん……お父さんっ……」
 声を上げてノーラは泣いた。悲しさに、情けなさに、そして悔しさに、体を震わせてノーラは涙を流した。
 ――そして、ふと、動きを止めた。
 ゆっくりと顔を上げる。
 泣いている場合ではないと気づいた。悔しいのは自分ではなく、父親だと気づいたのだ。
 強く、やさしかった父親を殺した犯人が、聖王の槍を手に今もどこかでのうのうとしているのだ。
 父親の悔しさを思えば、自分自身がどう思われているかなど、どうでもいいことだ。
 聖王の槍を取り戻さなければいけない。
 そうして、父親の無念を晴らさなければいけない。
 乱暴に頬の涙を拭い、ノーラは立ち上がった。
 うずくまっている暇などない。冷たい指を強く握り締める。
 大きく息をつき、足早に工房に戻ったノーラは階段を駆け下り、ケーンを見るなり言った。
「ケーン、私やっぱり旅に出るよ。親方のカタキと槍を探しに行くんだ。ここのことは頼んだよ」
 ケーンの前に、先程すれ違った客たちがいた。振り返った彼らの顔を、ノーラは力強く見つめ返した。

――終――
作品名:冷たい指先と、熱い涙 作家名:しなち