冷たい指先と、熱い涙
「ノーラちゃんっ、いてるかい?」
近所の商店の夫人が階段上から怒鳴るのが聞こえた。ノーラは立ち上がった。
「ハンナおばさん? どうかしたのかい?」
太った体で階段を勢いよく駆け下りてきた夫人の顔は真っ青だった。
「港で、親方が……」
すっと指先が冷えるのを感じた。
夫人を突き飛ばすようにして階段を駆け上がり、港へと走った。激しく耳鳴りがしている。息が苦しい。足がもつれそうになりながら港へたどり着いたノーラは、波止場近くに人だかりがあるのを見つけた。
息を切らせながらかき分けて進んでいくと、ノーラに気づいた顔見知りの者が肩を押さえた。
「ノーラちゃんは、見ないほうがいい」
乱暴にその手を振り払い、そしてノーラは見た。
青白く浮腫んだ親方が、仰向けに寝かされているのを。確認するまでもなく、死んでいるのは瞭然だった。
両手で口を抑え、ノーラはそばにひざまずいた。
「親方……」
騒ぎを聞きつけたのか、王宮から兵士たちがやってきた。
「どけ、道を開けろ」
道を空けさせて、数名の兵士が親方の前に立った。傍で座り込んでいるノーラを見下ろす。
「身内の者か?」
親方から目を離さないまま、ノーラは小さく頷いた。
「その人の、一人娘だよ」
人垣の中から誰かが答える声がして、兵士はため息をついた。
「そうか……つらいだろうが、気をしっかりするように」
声にやさしさがあるのに気づき、ノーラは兵士を見上げた。顔に深い皺が刻まれた初老の兵士だった。
「死体はそう傷んでないことから、亡くなってまだ間もないだろう。死因は、事故か自殺か、それとも他殺か……。何か心当たりはあるか?」
他殺という言葉を聞いて、ノーラはびくりとした。三日前の会話から鑑みて自殺など考えられない。
槍を取り戻しに向かった相手と、何かあったに違いない。
ノーラの表情を見て何かを察したのか、痛ましそうに初老の兵士は言った。
「すぐで申し訳ないが、遺体を調べる間、話を聞かせてもらっても構わないか?」
頷き立ち上がったノーラに、声をかける者がいた。
「大変なことになったな。困ったことがあれば、いつでも言っておいで」
見ると、スタンレーに工房がある同業の経営者だった。互いに仕事を融通し合うこともあるので心配しているのだろう。ノーラは背筋を伸ばした。
誰が見ているかわからない今、しっかりとしなければいけないと気づいたのだ。
「ご心配ありがとうございます。こんなことになってしまいましたが、仕事のことではご迷惑のないようにしますので」
「そんなことは落ち着いてからでいいよ。応援しているからね」
焼けて脂ぎった顔には労るような表情が浮かんでいる。ノーラは深々と頭を下げ、兵士と話をすべく建物の陰に入った。
親方の死因は溺死だった。事故と他殺の両方で調べは行われているということだが、その後の捜査の進捗状況は怪しいものだった。聖王の槍がなくなった原因はリブロフ軍がピドナを占拠したことに端を発する。持ち去ったのはリブロフ軍ではないということは確かなようだが、ルートヴィッヒにしてもこれ以上話を蒸し返したくはないに違いない。
手掛かりといえる物は、工房の机の引き出しにあった赤サンゴのピアスと、ジャッカルと走り書きされた紙の切れ端だけであった。
一年前、旅に出る前にきちんと整理された机の中で、それらだけが無造作に残されていた。
作品名:冷たい指先と、熱い涙 作家名:しなち