瑕 16 太古の森
「瑕をつけることができるのも、癒すことができるのも、他の誰でもなく、お前だけだ、ということだ」
「…………」
「衛宮士郎の魂は、お前にしか反応しない。そういうことなのだろう。だから、大切にしろ」
言いたいことだけ言って、カグツチは瞬時に消えた。
「…………あの、……おせっかいが……」
口元を手で覆って、ため息をつく。
顔が熱い。
「オレだけ、だと? そんなこと、知っている……」
だが、改めて指摘されて熱が上がっている。何をやっているのか、オレは……。
「そうだ……、オレがたくさんの傷をつけた。あの強い心に、何度も何度も剣を突き立てるように……」
士郎を傷つけるのも、癒すのも、自分だけ、とは……。
「まったく……、オレを、どこまで翻弄してくれるのか、お前は……」
知らず笑みが浮かんでしまう。
士郎が登っていった岩の坂を登り、士郎の邪魔にならない程度の距離を置き、台座のようになった丸みを帯びた岩に腰を下ろす。
岩山の突端で目を閉じた士郎の横顔を見つめる。
表情は無く、呼吸のたびに僅かに身体が揺れていなければ、彫像かとも思ってしまう。
舞う前の集中とも違っている。
これは瞑想だ。
見ていても浄化される気になるという森を感じることができれば、もう少し自分が見えるかもしれないと、士郎は瞑想することにしたらしい。
士郎は集中することは得意だ。自身の心を無にすることも、新年の舞でやり慣れている。心をどこか一点へ向けていく、という作業は得意だが、内に向けることは不得手で、自身への配慮の無さはそのせいでもある。
それは衛宮士郎の特性のため仕方がないのだが、瞑想することで少しずつ自身へ目を向けることができるようになるという。
その辺りは山の神に教わったらしい。山岳信仰の山々を束ねる山の神は、その点、的確に指導をしてくれたようだ。
どの神も、士郎には穏やかでいてもらいたいのだろう。士郎に対する神々の愛情が手に取るようにわかる。
(まあ、オレも、そうだからな……)
士郎に憑く風の神も、無条件で士郎に憑いている。その命を削ることもない、ただ、士郎の意に沿い、勝手に士郎を守っている。
漂流する神様だから、そのうち離れて行くかもしれない、と士郎は言ったが、オレにはそうは思えない。
風の神は士郎から離れることはないだろう。オレと同じで、何よりも士郎を愛しているのだから。
結跏趺坐で瞑想する士郎を眺めて太陽を待つ。風の神は森を吹き抜け、ひと時の自由を貪っている。
夜が消える。太陽と切り替わる。
この磐座の日中と夜は、太陽と月が出入りをするわけではなく、電灯のように切り替わるのだ。
明るくなる磐座の世界。森に陽射しが当たり、靄が遮光を形づくる。
僅かに開いた瞼から琥珀色が覗く。
ゆっくりと数度瞬き、瞼が完全に開いた。
赤銅色の髪が揺れる。
風が戻ってきた。
士郎の身体を一巡して、ただいま、と挨拶をしているように見える。
「おかえり」
呟く士郎が風に答える。
その優しさに満ちた横顔は、父性も母性も兼ね備えた、神そのものに見える。
(オレが愛したのは、人ではなく、神でもなく……)
何だと言えばいいのだろうか?
その括りがわからない。
ただ、その名は、衛宮士郎、というだけ。
(ああ、それでいい。オレには士郎だというだけで)
こちらに目を向けた士郎が、ふわり、と笑む。
その笑顔だけで、とオレはまた思うのだ。
(傍にいてくれるだけで、オレは救われている。士郎の傍らが、オレの帰る場所だ)
士郎がこちらへ歩いてくる。オレの膝先に立つ士郎をぼんやりと見上げた。
腰を屈め、膝に手をつき、中腰でオレの顔を覗き込む。
「……おはよう?」
オレが眠っているのかどうかが判然としなかったのだろう、やや首を傾げて士郎は訊く。
(眩しい……)
眩暈を覚えて声が出ない。
その頬を包み、琥珀色の瞳を見つめると、禊の川に初めて入った時のような感覚を思い出した。すべての澱が流され、浄化されていくような感覚……。
「おはよう」
ようやく答えるとともに口づけ、そっと抱きしめた。
純度を増した水のような、磨き抜かれた水晶のような、清浄な存在が腕の中にある。
「士郎はいつも、眩しすぎる」
「なんだよ、それ」
笑いを含んだ声に、オレも笑う。
「愛してやまない、ということだ」
「俺もだよ」
言って、士郎がオレに擦り寄ってくる。
「いいところだな、ここも」
「うん」
オレたちが心地いいと思える場所が増えていく。
オレたちが戻る場所はもう、剣の荒野ではない。
オレたちの居場所は、神々が騒めき、オレたちが日々を積み重ね、笑い合えるこの世界――。
士郎を癒す太古の森が静かに時を刻む、この、磐座だ。
瑕 16 ――太古の森 了(2016/2/19初出・11/15加筆修正)