Theobroma ――南の島で1
Theobroma ――南の島で1
その島に魅入られたのは、養父の影響だと思う。
エメラルドグリーンの海に囲まれた、緑濃い島。
亜熱帯の小さな島で、養父・衛宮切嗣は人生の一番いい時を過ごしたのだという。
愛する人とカカオの木を育て、質の良いチョコレートの原料を作って、と……。
けれど、その日々はわずか五年で終わった。
その島を所有する地権者と領有を主張する国とが険悪になって、養父は夢半ばで島を追い出されてしまった。
「その島を、俺が買う、なんてな……」
苦笑交じりに船上で呟く。
見えてきた海に浮かぶ島は、俺のすべて。
衛宮士郎二十五歳、一世一代の賭けに出た。
家も土地も売って、今まで蓄えてきた全財産をつぎ込んで手に入れた、俺の島。
ここで俺はカカオを育てる。
そして、世界一と謳われるチョコレートの原料を作るんだ。
俺の島……、なんて言うと金持ちみたいな聞こえだけれど、俺はごくごく一般人。
それなのに島を買うことができたのは、学生の頃からのバイトの成果と、一応サラリーマンとして稼いだ貯金と、日々を切り詰めて貯めた貯蓄と固定資産のおかげ。
その上に、破格の値段で島が売りに出されたという幸運があったからだ。
その島は、人口二百に届かず、長径でも五キロ程度という大きさで、高くはない山を中心として、そこから北東にかけては深い森に覆われている。
生活できる場所が限られているし、目立った産物もなく、リゾート地にもなり得ない。島を領有する国は島の所有者を国内に求めたけれど埒があかず、海外へも広く売り出したらしい。そこに俺が飛びついた、というわけだ。
そうして、夢を膨らませて上陸した俺を待っていたのは、人が好いだけであまり威厳のない感じの村長と、訝しげな表情を隠さない年配の男女と老人、遠巻きにこちらを窺っている血気盛んな感じの島の若者。
島の持ち主とはいえ、部外者の俺をそうそう受け入れてはくれない雰囲気。
村長は、一応俺が住むための小屋や生活用品とかを融通してくれたけど、あんまり関わろうとはしてこない。
「ま、仕方がないか」
まずは俺のやりたいことを説明して、理解を得ることが第一歩だろうしな。
島の広場に集まってもらって、俺がこの島に来た理由と、俺のやろうとしていることを話した。
島民の反応は薄いものだった。
(うん、まあ、仕方ない。まだまだ、これからだ……)
次の日も、俺のたどたどしい現地語で説明をしたけれど、だんだん集まる人も減り、三日もすれば、広場には村長さんだけだった。
「えーっと……」
「みな、忙しいんですよ」
村長さんもそう言って、広場を後にした。
「は……」
仕方がない、仕方がない。
「うん、しょうがない。言葉も、まだ、全然だしな……」
小屋に戻って、地図を片手にリュックを背負って森に向かった。
カカオの木の本数、樹齢なんかを調べてみないと、収穫量や生産量もわからないし、いろいろと計算しないとダメなこともある。俺には山ほど準備することがあるんだ。
やれることからやるしかない。
気持ちを切り替えて、森へ入った。
南国の島の中心部である森は、探検隊が行くジャングルみたいだ。鬱蒼と下草が生えて、背の高い木々が頭上を覆っていて……。
「あつ……」
それに、湿気が尋常じゃない。
道もない森の中をカカオの木を探しながら歩くから、迷わないように目印となる赤いリボンを木の枝なんかにつけて来たけど、それでも迷ってしまいそうな森の深くに入ってきていた。
「そろそろ戻るかな。カカオの木の数は、だいぶわかったし……」
リボンを伝って、来た道を後戻りする。
一つ目の赤いリボンを回収して、二つ目を回収、次々と回収していって、十本ほどリボンを手にしてから見回す。
「あれ?」
次のリボンが見当たらない。
「え? あれ?」
俺は次のリボンが見える位置にずっとリボンを付けて来ていた。毎度、面倒でも確認しながらリボンを結んで……。
「動物が持って行っちゃった、とか?」
それにしたって、その次がどこかにあるはずだ。
それも見当たらない。
見上げても木々と葉っぱで空は見えない。まだ暗くなっていないから日は落ちていないはずだけど……。
心臓が早鐘を打つ。
(これは、迷った……のか……?)
記憶を頼りに、と思っても、リボンを結んでいったから、それほどじっくり森の中を見ていたわけじゃない。どの木も見覚えがある気がする、記憶は頼りにはできない。
(じゃあ、足跡は……)
って、そんなの足元は土じゃないからわからないし。
「どう……しよう……」
俺、たった三日でリタイア?
俺、全部懸けて、ここに来たのに?
(ウソ……)
ちょっと情けないけど、泣きそうになった。
「く、くよくよしてても、どうしようもない! どうにかして、森を出ないと!」
歩いてきたと思われる道を真っ直ぐ進めば、そのうちに反対側か、元居たところに戻るだろう。
地図はあるけど、周りには目ぼしい目印になるものが無い。道も無い。川とか、岩とか、地図にある目印が、ここには無い。
「は……は……」
暑くて仕方がない。
お腹も空いているけど、食料は持ってないから仕方がない。
「食べられそうな葉っぱとか、わかればいいんだけど……」
植物図鑑も小屋に置いてきた。
「水しか、ないか……」
その水も、あんまり無駄にはできない。無理をしない程度に、極力抑えた水分補給を心掛けた。
森は深くて、初めて入りこんだ俺が、当てもなくさ迷ってどうにかなるほど甘い場所じゃない。それに、サバイバルなんてしたことのない俺は、自力でなんとかできるほど経験豊富なわけじゃない。
歩き続けるうちに、暗くなってしまった。
(どうしよう。あんまり動くのもまずい気が……)
だけど、じっとしてると蛇とか、何か得体の知れない夜行性の動物とかに襲われそうだし。
ペンライトしか持ってこなかったから、辺りの様子もわからない。
少し舐めてた。
森を甘く見てた。
今さらそんなことに気づいても遅いのに……。
「どうし、っ、わ、うわわっ!」
急に地面が無くなった。身体が浮いて、その後はどうにか右脚が着地して、痛みに呻く間もなく滑り落ちていく。ペンライトも落っことしてしまった。
(崖? 岩? 海? ここ、どこ!)
暗くて見えない。
「いっ!」
何か堅い物に当たって身体が止まった。手触りから、岩か石みたいだ。
水音がする。
今までの森の中とは少し違う、水の匂い。
「水……、池? 沼?」
池なのか沼なのか、全くわからないけど、森の中で植物以外の物にやっと出会った。
痛む足を引きずって水音の方へ近づく。
「だ、誰か、い、いる、の、か?」
たどたどしい現地語で問いかけると、ばしゃん、と大きな音がする。
「動物、かなぁ……?」
池の上だけがぽっかりと穴が開いたように木の枝葉がないことに気づいた。
木々の穴の向こうは灰色に見える。
息を潜めて様子を窺っていると、不意に光が射してきた。
(月の光……)
熱帯のこの島で、森の湿気と暑さでどうしようもないのに、冴え冴えとした青い光が少し身体の熱を下げてくれる気がする。
その島に魅入られたのは、養父の影響だと思う。
エメラルドグリーンの海に囲まれた、緑濃い島。
亜熱帯の小さな島で、養父・衛宮切嗣は人生の一番いい時を過ごしたのだという。
愛する人とカカオの木を育て、質の良いチョコレートの原料を作って、と……。
けれど、その日々はわずか五年で終わった。
その島を所有する地権者と領有を主張する国とが険悪になって、養父は夢半ばで島を追い出されてしまった。
「その島を、俺が買う、なんてな……」
苦笑交じりに船上で呟く。
見えてきた海に浮かぶ島は、俺のすべて。
衛宮士郎二十五歳、一世一代の賭けに出た。
家も土地も売って、今まで蓄えてきた全財産をつぎ込んで手に入れた、俺の島。
ここで俺はカカオを育てる。
そして、世界一と謳われるチョコレートの原料を作るんだ。
俺の島……、なんて言うと金持ちみたいな聞こえだけれど、俺はごくごく一般人。
それなのに島を買うことができたのは、学生の頃からのバイトの成果と、一応サラリーマンとして稼いだ貯金と、日々を切り詰めて貯めた貯蓄と固定資産のおかげ。
その上に、破格の値段で島が売りに出されたという幸運があったからだ。
その島は、人口二百に届かず、長径でも五キロ程度という大きさで、高くはない山を中心として、そこから北東にかけては深い森に覆われている。
生活できる場所が限られているし、目立った産物もなく、リゾート地にもなり得ない。島を領有する国は島の所有者を国内に求めたけれど埒があかず、海外へも広く売り出したらしい。そこに俺が飛びついた、というわけだ。
そうして、夢を膨らませて上陸した俺を待っていたのは、人が好いだけであまり威厳のない感じの村長と、訝しげな表情を隠さない年配の男女と老人、遠巻きにこちらを窺っている血気盛んな感じの島の若者。
島の持ち主とはいえ、部外者の俺をそうそう受け入れてはくれない雰囲気。
村長は、一応俺が住むための小屋や生活用品とかを融通してくれたけど、あんまり関わろうとはしてこない。
「ま、仕方がないか」
まずは俺のやりたいことを説明して、理解を得ることが第一歩だろうしな。
島の広場に集まってもらって、俺がこの島に来た理由と、俺のやろうとしていることを話した。
島民の反応は薄いものだった。
(うん、まあ、仕方ない。まだまだ、これからだ……)
次の日も、俺のたどたどしい現地語で説明をしたけれど、だんだん集まる人も減り、三日もすれば、広場には村長さんだけだった。
「えーっと……」
「みな、忙しいんですよ」
村長さんもそう言って、広場を後にした。
「は……」
仕方がない、仕方がない。
「うん、しょうがない。言葉も、まだ、全然だしな……」
小屋に戻って、地図を片手にリュックを背負って森に向かった。
カカオの木の本数、樹齢なんかを調べてみないと、収穫量や生産量もわからないし、いろいろと計算しないとダメなこともある。俺には山ほど準備することがあるんだ。
やれることからやるしかない。
気持ちを切り替えて、森へ入った。
南国の島の中心部である森は、探検隊が行くジャングルみたいだ。鬱蒼と下草が生えて、背の高い木々が頭上を覆っていて……。
「あつ……」
それに、湿気が尋常じゃない。
道もない森の中をカカオの木を探しながら歩くから、迷わないように目印となる赤いリボンを木の枝なんかにつけて来たけど、それでも迷ってしまいそうな森の深くに入ってきていた。
「そろそろ戻るかな。カカオの木の数は、だいぶわかったし……」
リボンを伝って、来た道を後戻りする。
一つ目の赤いリボンを回収して、二つ目を回収、次々と回収していって、十本ほどリボンを手にしてから見回す。
「あれ?」
次のリボンが見当たらない。
「え? あれ?」
俺は次のリボンが見える位置にずっとリボンを付けて来ていた。毎度、面倒でも確認しながらリボンを結んで……。
「動物が持って行っちゃった、とか?」
それにしたって、その次がどこかにあるはずだ。
それも見当たらない。
見上げても木々と葉っぱで空は見えない。まだ暗くなっていないから日は落ちていないはずだけど……。
心臓が早鐘を打つ。
(これは、迷った……のか……?)
記憶を頼りに、と思っても、リボンを結んでいったから、それほどじっくり森の中を見ていたわけじゃない。どの木も見覚えがある気がする、記憶は頼りにはできない。
(じゃあ、足跡は……)
って、そんなの足元は土じゃないからわからないし。
「どう……しよう……」
俺、たった三日でリタイア?
俺、全部懸けて、ここに来たのに?
(ウソ……)
ちょっと情けないけど、泣きそうになった。
「く、くよくよしてても、どうしようもない! どうにかして、森を出ないと!」
歩いてきたと思われる道を真っ直ぐ進めば、そのうちに反対側か、元居たところに戻るだろう。
地図はあるけど、周りには目ぼしい目印になるものが無い。道も無い。川とか、岩とか、地図にある目印が、ここには無い。
「は……は……」
暑くて仕方がない。
お腹も空いているけど、食料は持ってないから仕方がない。
「食べられそうな葉っぱとか、わかればいいんだけど……」
植物図鑑も小屋に置いてきた。
「水しか、ないか……」
その水も、あんまり無駄にはできない。無理をしない程度に、極力抑えた水分補給を心掛けた。
森は深くて、初めて入りこんだ俺が、当てもなくさ迷ってどうにかなるほど甘い場所じゃない。それに、サバイバルなんてしたことのない俺は、自力でなんとかできるほど経験豊富なわけじゃない。
歩き続けるうちに、暗くなってしまった。
(どうしよう。あんまり動くのもまずい気が……)
だけど、じっとしてると蛇とか、何か得体の知れない夜行性の動物とかに襲われそうだし。
ペンライトしか持ってこなかったから、辺りの様子もわからない。
少し舐めてた。
森を甘く見てた。
今さらそんなことに気づいても遅いのに……。
「どうし、っ、わ、うわわっ!」
急に地面が無くなった。身体が浮いて、その後はどうにか右脚が着地して、痛みに呻く間もなく滑り落ちていく。ペンライトも落っことしてしまった。
(崖? 岩? 海? ここ、どこ!)
暗くて見えない。
「いっ!」
何か堅い物に当たって身体が止まった。手触りから、岩か石みたいだ。
水音がする。
今までの森の中とは少し違う、水の匂い。
「水……、池? 沼?」
池なのか沼なのか、全くわからないけど、森の中で植物以外の物にやっと出会った。
痛む足を引きずって水音の方へ近づく。
「だ、誰か、い、いる、の、か?」
たどたどしい現地語で問いかけると、ばしゃん、と大きな音がする。
「動物、かなぁ……?」
池の上だけがぽっかりと穴が開いたように木の枝葉がないことに気づいた。
木々の穴の向こうは灰色に見える。
息を潜めて様子を窺っていると、不意に光が射してきた。
(月の光……)
熱帯のこの島で、森の湿気と暑さでどうしようもないのに、冴え冴えとした青い光が少し身体の熱を下げてくれる気がする。
作品名:Theobroma ――南の島で1 作家名:さやけ