Theobroma ――南の島で2
Theobroma ――南の島で2
動くことのない焙煎機はカバーをかけられたままだ。
発酵の終わったカカオ豆は乾燥しているが、その先の工程へ進むことなく麻袋に入ったまま山積みにされている。
島のカカオマス生産は頓挫している。
原因はオレたちにはわからない。だが、売れなくなったらしい、ということはわかった。
島の者はみな、以前と同じように漁や畑でその日の食料を賄う。
彼がいた時の倍を払うと言われた賃金は、カカオマスの生産が無いため、今は全く払われていない。
彼が島を出て二ヶ月で、島は活気すら失った。
「アーチャー、今日は沖が時化だってよ」
「ああ、だろうな」
港から沖合いの空を眺め、サグに答える。
「なー、なんかさー」
手持ち無沙汰なサグが、両腕を頭の後ろで組み、息を吐いた。
「あいつ、いた時のが、面白かったよな……」
「追い出そうとしていたのにか?」
「んー、なんだけどよー、あいつ、根性あったし、チョコレートのことしか頭になかっただろー? おれ、何回も手を抜くなって、殻剥きの時怒られた」
「お前は面倒くさがりだからな……」
数か月前だというのに、ずいぶんと時が経ったように思える。
あの頃のことを思うと少し頬が緩む。
「アーチャーもさぁ……」
サグはオレを、ちら、と見上げる。
「楽しかったろ?」
ずきり、と胸が疼いた。
「楽しくは……」
「笑ってたじゃねーか、いっつも」
そうか、オレは笑っていたのか、彼と……。
「なあ、あいつ、もう、来ねーのかなぁ」
「……さあな」
そう答えるしかない。
理由はわからないが、彼は本国からの命令で、日本へ強制送還されたらしい。だが、彼は島の所有者だ、いつかは戻ってくるはずだ、と、オレはそんな微かな期待に縋っていた。
カカオマスの生産がストップして四ヶ月、また日本人が港に下り立った。
今度は女性だ。肩にかかる長い黒髪をさらりと手で払い、意思の強そうな目をして、凛とした雰囲気を持っている。
前もって連絡があったのか、村長が出迎え、いつもは居住区の奥に建つ、過去の植民者が住んでいたコンクリート造りの家に引きこもっているはずの雇い主・マトウもいる。
通訳も交え、港で立ち話のようだ。
『で? あんたが、今の生産者ってこと? 慎二?』
『ぼ、僕は、衛宮から、この島のカカオと労働力を譲り受けただけだ』
『譲り受けた、ねぇ』
『ほ、本当だ! 島民は僕の許で働くってことに賛成したんだ! 別に、何も賄賂とか、そういう手を使ったわけじゃない!』
『よっく言うわよ、倍の賃金って、ちらつかせたんでしょ。立派な買収じゃない』
『ヘ、ヘッドハンティングは、ビジネスでよくあることだろ!』
『ビジネスねぇ……。あんたに、ビジネスなんて語ってもらいたくはないわよ、ボンボンのくせに』
『遠坂だって、蝶よ花よと育てられてただろ!』
『私は経済学も流通も自力で学んだわよ! あんたと一緒にしないで』
『う……』
どうやらマトウと彼女は知り合いのようだ。日本語で話しているので何を言っているのかわからないが、彼女の方がうわ手だということはわかった。
村長がこちらを指さしている。彼女もこちらを見た。何事かを話し合いながら、村長が手招きしている。
「アーチャー、なんか呼ばれてるぞー」
「ああ……」
あまり気乗りしないが、仕方がないので、その日本人たちの所へ向かった。
「遠坂凛よ。英語、話せるんですって?」
頷くと、よろしく、と右手を出してきた。
それに応え、彼女の話を聞いていると、オレたちの島で作るカカオマスの買い取り主なのだそうだ。
「そっか、士郎は強制退去、ね……。どうせ、慎二が何か手を加えたんだろうけど……。それで? アーチャー、だっけ? 士郎の面倒を看てくれたのは」
「いや、面倒を看ていたということではない」
「看ていたかどうかは別にして、あなたは何を見たの?」
「何を……見た?」
彼女の言う意味が量りきれず首を傾げる。
「士郎がどういう経緯と意気込みでカカオマスを作ってたかってこと、見たままでもいいわよ、教えて」
そう言われてオレは、彼の何を見ていたのだろう、と疑問を浮かべた。
「アーチャー?」
「教えろと、言われたところで……」
要領を得ないオレに痺れを切らしたのか、
「んー、じゃあ、士郎の住んでたところ、教えて」
そう言った彼女を先導して、浜辺の小屋へ向かった。
「ふーん。なーんにもないわねー」
小屋の中を見て回り、彼女は興味なさそうに小屋を出た。
「それで? あいつはここに来て、何をしていたの?」
「そうだな……」
森に入りカカオの木を調べていたこと、実が熟して収穫し、カカオマスの生産に取りかかったことなど、オレが見たままを彼女に話した。
「ほんっと、チョコレートのことしか頭にないのよねぇ」
呆れたように言いながらも、彼女はそんな彼を、どこか温かく見守っているようだった。
「島の人とはどうだった? 仲良くなったりは?」
「彼は、言葉があまり話せなかったので、日常的に話をするのは英語で、必然的にオレくらいだった」
「言葉? ああ、話すのがってことね。そうね、なかなか難しそうだものね」
「話すのは? いや、彼は島の言葉を理解しては――」
「聞き取りは大丈夫なはずよ? なんたって、昔からこの島の言葉を勉強していたんだもの。話すのは、発音とかが難しいみたいで、てこずってたみたいだけど」
愕然とした。
聞き取りはできていた?
島の言葉を彼は、理解していた?
「どうしたの? 何か問題があった?」
「い、いや……」
鼓動が速くなっていく。
オレが……、オレたちが話していたことを、彼はすべて理解していたのか?
「あ、そうそう、あいつ、大丈夫だった?」
「だ、大丈夫、とは、何がだ?」
「この島の女の人と。うまく話せてた?」
「島の女と……? いや、あまり、島の女たちと話はしていなかったようだ。島の女たちは話したがることもあったが、いつも逃げるようにどこかへ行ってしまうので……」
「そ。じゃあ、まだ、ダメなのねぇ。情けない。いつまで引きずってるんだか」
「何か、あるのか? 彼は女性が嫌いなのか? もしやゲイだというのでは――」
「あ、そういうんじゃないのよ。女の人が嫌いなんじゃなくて、苦手なの。トラウマがあって、まだ、抜け出せないみたい」
「トラ、ウマ……?」
「んー、まあ、もう、時効だから言うけど……。あいつね、学生の頃に同級生の女子にからかわれていて……」
「からかう?」
「ほら、あいつ、すぐ顔に出るし、人を疑うってこと知らないから、すぐに信じちゃって」
「何を?」
「思わせ振りな態度」
冷たい汗が背中を流れた。
「女子はねー、面白いからって、けっこうエスカレートしちゃってねぇ。だけど、あいつは真剣なわけだし、別に好きでもない子だったんだろうけど、押しに弱いからいいように扱われて……。あげく、冗談よ、なんて言われたら、まあ、トラウマにはなるわよね……。ほんとバカなのよ、あいつ。それが、一度や二度じゃないってんだから。小中高とその手の女子に騙され続けてね、結果、女性恐怖症。一時期は私とも顔合わせようとしなかったもの、重傷よ」
動くことのない焙煎機はカバーをかけられたままだ。
発酵の終わったカカオ豆は乾燥しているが、その先の工程へ進むことなく麻袋に入ったまま山積みにされている。
島のカカオマス生産は頓挫している。
原因はオレたちにはわからない。だが、売れなくなったらしい、ということはわかった。
島の者はみな、以前と同じように漁や畑でその日の食料を賄う。
彼がいた時の倍を払うと言われた賃金は、カカオマスの生産が無いため、今は全く払われていない。
彼が島を出て二ヶ月で、島は活気すら失った。
「アーチャー、今日は沖が時化だってよ」
「ああ、だろうな」
港から沖合いの空を眺め、サグに答える。
「なー、なんかさー」
手持ち無沙汰なサグが、両腕を頭の後ろで組み、息を吐いた。
「あいつ、いた時のが、面白かったよな……」
「追い出そうとしていたのにか?」
「んー、なんだけどよー、あいつ、根性あったし、チョコレートのことしか頭になかっただろー? おれ、何回も手を抜くなって、殻剥きの時怒られた」
「お前は面倒くさがりだからな……」
数か月前だというのに、ずいぶんと時が経ったように思える。
あの頃のことを思うと少し頬が緩む。
「アーチャーもさぁ……」
サグはオレを、ちら、と見上げる。
「楽しかったろ?」
ずきり、と胸が疼いた。
「楽しくは……」
「笑ってたじゃねーか、いっつも」
そうか、オレは笑っていたのか、彼と……。
「なあ、あいつ、もう、来ねーのかなぁ」
「……さあな」
そう答えるしかない。
理由はわからないが、彼は本国からの命令で、日本へ強制送還されたらしい。だが、彼は島の所有者だ、いつかは戻ってくるはずだ、と、オレはそんな微かな期待に縋っていた。
カカオマスの生産がストップして四ヶ月、また日本人が港に下り立った。
今度は女性だ。肩にかかる長い黒髪をさらりと手で払い、意思の強そうな目をして、凛とした雰囲気を持っている。
前もって連絡があったのか、村長が出迎え、いつもは居住区の奥に建つ、過去の植民者が住んでいたコンクリート造りの家に引きこもっているはずの雇い主・マトウもいる。
通訳も交え、港で立ち話のようだ。
『で? あんたが、今の生産者ってこと? 慎二?』
『ぼ、僕は、衛宮から、この島のカカオと労働力を譲り受けただけだ』
『譲り受けた、ねぇ』
『ほ、本当だ! 島民は僕の許で働くってことに賛成したんだ! 別に、何も賄賂とか、そういう手を使ったわけじゃない!』
『よっく言うわよ、倍の賃金って、ちらつかせたんでしょ。立派な買収じゃない』
『ヘ、ヘッドハンティングは、ビジネスでよくあることだろ!』
『ビジネスねぇ……。あんたに、ビジネスなんて語ってもらいたくはないわよ、ボンボンのくせに』
『遠坂だって、蝶よ花よと育てられてただろ!』
『私は経済学も流通も自力で学んだわよ! あんたと一緒にしないで』
『う……』
どうやらマトウと彼女は知り合いのようだ。日本語で話しているので何を言っているのかわからないが、彼女の方がうわ手だということはわかった。
村長がこちらを指さしている。彼女もこちらを見た。何事かを話し合いながら、村長が手招きしている。
「アーチャー、なんか呼ばれてるぞー」
「ああ……」
あまり気乗りしないが、仕方がないので、その日本人たちの所へ向かった。
「遠坂凛よ。英語、話せるんですって?」
頷くと、よろしく、と右手を出してきた。
それに応え、彼女の話を聞いていると、オレたちの島で作るカカオマスの買い取り主なのだそうだ。
「そっか、士郎は強制退去、ね……。どうせ、慎二が何か手を加えたんだろうけど……。それで? アーチャー、だっけ? 士郎の面倒を看てくれたのは」
「いや、面倒を看ていたということではない」
「看ていたかどうかは別にして、あなたは何を見たの?」
「何を……見た?」
彼女の言う意味が量りきれず首を傾げる。
「士郎がどういう経緯と意気込みでカカオマスを作ってたかってこと、見たままでもいいわよ、教えて」
そう言われてオレは、彼の何を見ていたのだろう、と疑問を浮かべた。
「アーチャー?」
「教えろと、言われたところで……」
要領を得ないオレに痺れを切らしたのか、
「んー、じゃあ、士郎の住んでたところ、教えて」
そう言った彼女を先導して、浜辺の小屋へ向かった。
「ふーん。なーんにもないわねー」
小屋の中を見て回り、彼女は興味なさそうに小屋を出た。
「それで? あいつはここに来て、何をしていたの?」
「そうだな……」
森に入りカカオの木を調べていたこと、実が熟して収穫し、カカオマスの生産に取りかかったことなど、オレが見たままを彼女に話した。
「ほんっと、チョコレートのことしか頭にないのよねぇ」
呆れたように言いながらも、彼女はそんな彼を、どこか温かく見守っているようだった。
「島の人とはどうだった? 仲良くなったりは?」
「彼は、言葉があまり話せなかったので、日常的に話をするのは英語で、必然的にオレくらいだった」
「言葉? ああ、話すのがってことね。そうね、なかなか難しそうだものね」
「話すのは? いや、彼は島の言葉を理解しては――」
「聞き取りは大丈夫なはずよ? なんたって、昔からこの島の言葉を勉強していたんだもの。話すのは、発音とかが難しいみたいで、てこずってたみたいだけど」
愕然とした。
聞き取りはできていた?
島の言葉を彼は、理解していた?
「どうしたの? 何か問題があった?」
「い、いや……」
鼓動が速くなっていく。
オレが……、オレたちが話していたことを、彼はすべて理解していたのか?
「あ、そうそう、あいつ、大丈夫だった?」
「だ、大丈夫、とは、何がだ?」
「この島の女の人と。うまく話せてた?」
「島の女と……? いや、あまり、島の女たちと話はしていなかったようだ。島の女たちは話したがることもあったが、いつも逃げるようにどこかへ行ってしまうので……」
「そ。じゃあ、まだ、ダメなのねぇ。情けない。いつまで引きずってるんだか」
「何か、あるのか? 彼は女性が嫌いなのか? もしやゲイだというのでは――」
「あ、そういうんじゃないのよ。女の人が嫌いなんじゃなくて、苦手なの。トラウマがあって、まだ、抜け出せないみたい」
「トラ、ウマ……?」
「んー、まあ、もう、時効だから言うけど……。あいつね、学生の頃に同級生の女子にからかわれていて……」
「からかう?」
「ほら、あいつ、すぐ顔に出るし、人を疑うってこと知らないから、すぐに信じちゃって」
「何を?」
「思わせ振りな態度」
冷たい汗が背中を流れた。
「女子はねー、面白いからって、けっこうエスカレートしちゃってねぇ。だけど、あいつは真剣なわけだし、別に好きでもない子だったんだろうけど、押しに弱いからいいように扱われて……。あげく、冗談よ、なんて言われたら、まあ、トラウマにはなるわよね……。ほんとバカなのよ、あいつ。それが、一度や二度じゃないってんだから。小中高とその手の女子に騙され続けてね、結果、女性恐怖症。一時期は私とも顔合わせようとしなかったもの、重傷よ」
作品名:Theobroma ――南の島で2 作家名:さやけ