青の洞窟
Purgatorial Snow
青い洞窟の瞳に抱かれながら芽生えた愛は
深き海に降る雪のように消える事もなく
ただ無音のままに重なり積もる
【 Purgatorial Snow 】
「ーーーサガ」
二人きりの時、私の名を呼ぶシャカの声は不思議なほどにとても美しく、輝き透き通る水晶のように胸の奥底まで響き渡る。シャカは他の者のように私が狂気に落ちた時も恐れたり怯えたりすることもなく、ただ悲しげに、それこそ深海ほどの静けさのまま傍に居た。
そして澱む霧の中でおのれを見失い、亡霊のように彷徨い、狂う私を探し出し、真闇から救い上げた。それこそ天上から差す光のように。
シャカの細すぎる身体にしがみつくようにして安らかな心のまま眠りについていた私をシャカが優しく揺り起こす。
「そろそろ起きたまえ。約束の時間はとっくに過ぎた、サガ」
「ーーーもう、そんな時間なのか?」
微睡みの時間が過ぎ去るのが早いのか、それともシャカと共に過ごす時間だけが殊更早く過ぎるのか・・・不公平に感じる時間の感覚。つい不満げに告げてしまう。シャカは呆れながらも、口元に小さな笑みを零して返した。
「君を待つ者はひどく首を長くしているはずだ」
そろりとシャカは聞き分けのない私を宥めるように温かな手のひらを私の額に押しあて、もう一度「さぁ」と促した。仕方がないーー私は嫌々ながら決心して起き上がる。
「すぐに片付けて戻る」
そう言い切る私に呆れながら、そして咎めるようににシャカは眉根を寄せた。
「急ぐ事はなかろう?きちんと職務を果たしてきたまえ。私は君が戻るまでここにいるから」
「ーーー本当に?」
シャカが嘘をつくことなどないと分かっていても、確かめられずにはいられない。いつだってそうだ。
「ああ、本当だ」
嘘偽りないとでもいうようにシャカは薄く笑みながら、半分だけ起こしていた身体を絹の海へと沈ませた。
「君が戻るまで、私は眠る。戻ってきたら、起こしたまえ」
「わかったよ。じゃあ、おやすみ・・・シャカ」
いつものように手を伸ばし、柔らかな黄金に波打つ髪を撫でながら、離れ難い想いを残したまま、僅かな胸の痛みとともにもその場を後にする。
シャカとの時間を割いてまで執り行う必要性を感じない職務。
手早く済ませようとすればするほど、様々な雑用が舞い込んでくる気がするーーと少々苛立ちながら、予定よりもたっぷりと時間を浪費したのち、足早にシャカの待つ寝室・・・それこそ聖域といってもいい場所へと向かった。
(もしかしたら、もうシャカはいないかもしれない。)
そんな不安を抱えながら固く閉ざされた扉を開けて、絹の海に舞うような緩やかな黄金の波を見つけてようやく私は安堵する。
いつも、
いつも。
シャカを起こさないようにそっとその静かな寝顔を眺める。
長い睫毛。
肌理の細やかな白い肌。
深く規則正しい寝息を吐く、薄紅に濡れた口唇。
目だけではなく、心さえも奪われる。全身でシャカを感じたいと願いながら。
けれども、それは叶う事の無い泡沫の想い。臆病な私は奥底に追いやった浅はかな願いを哀れみながら、シャカの細い指先に絡まる黄金の髪にそっと触れ、口づける。
(いっそ、このまま・・・閉じ込めてしまおうか)
(誰のものにもならぬように。私だけのシャカであるように)
幾度となく、思ったこと。
ひどく渇いた声が囁き、心は飢えていく。残酷な声の囁きに醜く歪んでいく愛のカタチ。
一度、その甘い水を知ってしまえば、枯れ果てるまで私は飲み続けるだろう。それこそ、シャカの血も涙も枯れ果てるまで、ざくざくと切り裂いたとしても私は満足などできはしない。
きっと塵芥も残さぬほどシャカのすべてを求めてしまう。
その透き通る声も、
黄金に輝く姿も、
青き空を閉じ込めた深海の瞳も、
美しく穢れない精神さえもーーー
粉々に打ち砕いてしまうほどの凶暴な愛なのだと戦慄するばかりだ。
奥底の破壊衝動に何度となく流されかけながら、震える指先を我が身に食い込ませる。肉を破る痛みと滴り落ちる赤い血の一滴だけが我が身に巣食う狂気を闇の狭間へと押しやる事ができた。
「シャカ、私は誰よりもおまえを・・・」
深い眠りにあるシャカには届かぬよう、泣き濡れた声でそれこそ無音のままに降り積もるようにただ私は小さく囁くだけしかできなかった。
Fin.