sleeping my boy
あれは確か、私が音也君と付き合い始めて間もない頃。
私よりも一ノ瀬さんの方が、音也君の事をよく知っているのかもしれないと思って。
音也君が部屋でどんなふうに過ごしているのかを一ノ瀬さんに訊いてみたら、一ノ瀬さんは呆れ気味に答えてくれた。
「普段と何ら変わりませんよ。食事や、授業の課題など必要最低限の事をしたら、あとはギターを弾いたり、好きなマンガを読んだり、人が聞いてもいない雑談を一人で延々と続けたり、そんなところです」
私はつい笑ってしまった。確かに音也君らしい。
人なら誰でも多少は裏表があるものだけど、音也君に関してはそれらしいものを感じた事がない。
いつも通りの彼の仕草や、二人のやりとりが目に浮かぶ様だった。
「でも、時々一ノ瀬さんに勉強を教えてもらってるって、音也君が言っていました。厳しいけど、わかるまで丁寧に説明してくれるって、とても嬉しそうでした」
「それは…たまたま時間に余裕があった時の事でしょう。ルームメイトと言う立場上、多少の手助けはしますが、私は…レッスンなどで不在がちですから、一緒にいる時間はさほど多くありません。それに、彼は大抵私より遅く起きて早く寝ていますから、見るのは寝ている姿ばかりですね」
「そうですか…せっかく一緒の部屋なのに」
寂しいですね、と私が言うより早く一ノ瀬さんが、
「私は別に。むしろ下手に起きていられるよりは静かで良いくらいです。だというのにあの男は…時々、妙な寝言を口走ったり…」
「妙な寝言?」
私が聞き返すと、一ノ瀬さんは冷たい口調で、
「よくある事です。あまりよく聞き取れませんし、特に興味もありません」
その言葉に、私は違和感を覚えた。
「聞き取れないって、一ノ瀬さんがですか?」
思わず聞き返すと、一ノ瀬さんがわずかに眉をひそめた。
「何が言いたいんですか」
一ノ瀬さんは不機嫌そうに私を見た。
「他人の言葉を疑って聞き返すからには、何か根拠があるのでしょう?」
気を悪くさせてしまったかな。思いながらも、訊かれた事を私はそのまま、正直に答える。
「…一ノ瀬さんとは前に合同実習でご一緒させて頂いたので、耳がとても良いのを知っていますし、あとは一ノ瀬さんの言い方でなんとなく」
突き放す様な口調が、わずかに動揺している様に聞こえたから。
でもそれは根拠と言う程のものじゃなく、単なる私の印象に過ぎなかった。
けれど、腕を組んで私の話を聞いていた一ノ瀬さんは、やがて小さくため息をついた。
「…君は抜けている様に見えて、案外鋭いですね」
緊張した空気が解ける。
「それでも教える気はありませんが。彼にも一応、プライバシーと言う物はあるでしょうし…私も少々喋り過ぎました」
真面目な人だな、と私は思った。口調は淡々としていても、内心では音也君を気遣っているのが分かった。音也君も一ノ瀬さんのこういうところを分かって、信頼しているのかも。
「けれど君はもしかしたら、いずれ耳にする機会があるかもしれません。あるいは…君といれば、いつかそれも、無くなるのかもしれませんね」
「? どういう意味ですか」
「さあ、どういう意味でしょう。私から言える事があるとすれば…あの男は、見た目ほど能天気ではないと言う事です」
電話の後、私は服を着替えて、音也君の部屋へ向かった。
ドアをノックしてみるけど、返事がない。お風呂に入っているのかな?
音也君が言っていた通りドアの鍵は開いていたから、そのまま、おそるおそる部屋に入った。
部屋の電気は点いていて明るい。
けれど静かな室内には人の気配が感じられなくて、バスルームに近づこうとしたら、リビングのソファに座っている音也君の姿が見えた。
「音也君…?」
声を掛けてみても返事がなく、近づいて顔をのぞき込むと、すやすやと気持ち良さそうに眠っていた。
やっぱり疲れてたんだな。
隣に座ると、かすかに石鹸の香りがして、髪がちょっと濡れている。
半袖のTシャツにハーフパンツだけで、そのまま眠るには、今の季節は少し肌寒い。
「音也君、髪ちゃんと乾かしましょう。それに眠るならベッドで」
私は音也君の隣に座って、肩に触れる。
熟睡しているみたいで、目を閉じたまま、返事もない。
どうしたらいいだろう。
迷いながら、手を伸ばして、そっと頬に触れてみる。
「ね、音也君。起きて下さい。風邪引いちゃいますよ?」
「ん…」
音也君の口からは小さな声がもれただけで、やっぱり目を覚まさない。
ひとまず何か毛布とか上着とか、掛けてあげた方がいいのかもしれない。
私は触れていた手を離して立ち上がろうとすると、突然その手をつかまれた。
「あ、あの」
「待って…行かないで…一緒に…」
いつもとどこか違う音也君の様子に、私は戸惑う。
「音也く…」
「…母さん…」
あ。
(時々、妙な寝言を口走ったり)
前に聞いた、一ノ瀬さんの言葉がよぎる。
もしかして、あの時、一ノ瀬さんが言っていたのは…
音也君には、音也君を産んでくれたお母さんと、音也君を育ててくれたお母さんがいて、けれど二人とももういない。
眠っている音也君の胸元に、肌身離さず付けている、銀のロザリオが光っている。
音也君を育ててくれたお母さんがくれたもの。お守り代わりだと笑っていた。
言葉にしなくても、とても大切にしているのが分かる。
音也君はいつも笑顔で明るくて、元気いっぱいの男の子。
だけど心の奥では、言葉に出来ない寂しさをずっと抱えているのかな。
誰よりも、一人ぼっちの寂しさを知っていて。
音也君の持っている優しさは、そこから生まれてくるのかな。
いつも私をあたたかく包み込んで、勇気づけてくれる、陽だまりの様な優しさは。
私は音也君の右手に、自分のもう片方の手を重ねる。
「私はずっと音也君のそばにいます…だから、安心して下さいね」
かけがえのない、大切な人。
誰も、誰かの代わりになんてなれないのかもしれない。
私にとって音也君がそうである様に。
だけど、寂しい気持ちにならないで欲しい。
私に出来る事なら、何でもするから。
私はそのままソファに座って、音也君の短い髪をなでた。小さい頃、母親にそうしてもらったみたいに。
「おやすみなさい」
私は少しだけ音也君の肩に体を寄せると、その心地良いぬくもりに吸い込まれる様に目を閉じた。
「ありがと…春歌」
音也君のやわらかい声が小さく自分の名前を呼ぶのを、私は夢の中で聴いた。
作品名:sleeping my boy 作家名:透野サツキ