白薔薇の祈り
白い薔薇を見るとあの人のことを思い出す。彼は常に漆黒のスーツでその刺々しい身を包み、白薔薇のように潔癖で、人の心を穿つような清冽な香りをまとっていた。透明な視線で天を仰ぎ、路上に屹立する様は細く高く、空へとのびゆくひとすじの崇高な光のようだった。この世のどんな富も栄誉も、彼に比べれば水面に浮かぶ塵芥にすぎないのだと、思うようになったのはいつからだったか。雲雀さん雲雀さんと気の遠くなるまで呟いて、十年経っても頑なに薄れない自分の思慕の情の深さを知った。
机に置かれたグラス一杯の水を飲み干して、ぼんやり窓の外を眺めた。午前二時をまわった街はひたすら暗く、隣町に住む子どもの寝息さえ聞こえてきそうだ。そろそろ眠い。床に就く前にもう一度、何かやり残したことはないだろうかと再確認をする。というのも明日(厳密にはもう今日か)、自分はこの世を去らなければならないらしいので。
自分の命日を知ってしまったのは十年前のことだった。あの時の悍ましさは、今も忘れることなど出来はしない。いきなり十年後の世界に飛ばされたと思ったら自分は棺桶の中にいて、そこで会う人々に「お前は殺されたんだ」なんて立て続けに言われた日には、動揺のあまり夜は眠れないし、涙は止まらなかった。まだ中学生だった自分が初めて直面した死の面影。今から思えばそれはあまりにも残酷なものだった。死への恐怖は一瞬にして骨の髄まで染みつき取れず、時折暗い影を覗かせてはこの十年間オレを苦しめ続けてきたものだが、不思議なことに、終焉が近付くにつれ自分はそれを諦観として身につけていった。そんなわけで今は朝焼けの凪いだ海のように穏やかな心持ちである。
コンコンとノックの重厚な音が響いて扉の方を振り返った。どうぞ、と答えようとすると、その前にヒバリさんが「ちょっといいかな」と窺うように顔を覗かせる。別に構わないのだけれど、これではノックの意味がないじゃないか。そんなやりとりをするのも面倒になってしまうくらい、この人とはもうずっと長い付き合いだった。ともすると地位が逆なのではないかと錯覚してしまうような、気弱な上司と偉そうな部下の関係。
「まだ起きてたんですか」
「君こそ」
「オレはもう寝ますよ」
「それは邪魔したね。ところで、この間渡された書類のことなんだけど」
ヒバリさんは悪気もなさそうに言うと、書類を突き出し、ああだのこうだのと得意の文句をつけ始めた。オレは適当に相槌を打ちながらそれを聞き流す。だって、そんなことオレに言われたって、どうせもうオレには関係ないんだし。
「ねえ、聞いてる?」
「はい」
「嘘つき。もういい」
「ヒバリさん」
怒って帰ろうとするヒバリさんを呼び止めると、ヒバリさんはただでさえ鋭い目を余計に尖らせてこちらを睨んだ。昔は怖くて仕方なかったこの視線も、今となってはすべてがいとおしい。オレはへらりと笑ってヒバリさんを見返した。
「なに」
「あの……また会いに来るんで、その時はよろしくお願いします」
「……何の話?」
「いや、その、例えばオレが突然死んじゃったりしても、またヒバリさんに会いに来ますよ」
「どうしたの、いきなり」
ヒバリさんは小馬鹿にしたようにフンとひとつ鼻をならすと、口元をゆるく釣り上げて笑った。
「面白いね。それで? どうやって会いにきてくれるのかな」
「えーと、過去からとんできます」
「くだらないな。君、寝ぼけてるの? 早く寝なよ」
「そう言わずに、もしもの時は過去のオレに力を貸してあげて下さい。彼はまだ中学生ですから。それと」
「悪いけど、君の妄想につきあってる時間はないんだ。じゃあね」
オレの言葉など意に介せず、ヒバリさんはさっさと部屋を出て行ってしまった。バタンと閉まった扉の向こう、静かに遠ざかっていく足音に耳を欹てながら、ああやっぱりヒバリさんはいつまで経ってもヒバリさんだったな、と微笑が漏れる。まったくあの人といったら、最後の最後までそっけないんだから。
ヒバリさんの気配が完全になくなると、オレは部屋の電気を消した。月明かりに青白く照らし出された布団の中に潜ると、慈悲深いぬくもりと安堵がオレを包んだ。枕に顔をうずめ、数年来オレの夜に付き添ってくれていた懐かしい香りで肺を満たす。今宵は風ひとつなく、窓の外では下弦の月が淡く静かに輝いている、それは安らかな夜だった。急激に重みを増してくる瞼に逆らわずに、オレはそのまま小川のせせらぎのような緩やかな眠りに身をゆだねた。
その日、オレは久しぶりに夢を見た。二十数年の人生の中で一番幸せだった、十年前の日の夢だった。