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10 モスクワ蜂起

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「号外だよ!!―号外だよ!」
―モスクワ蜂起が―制圧された!戦闘に参加したボリシェビキの連中は―、全員逮捕されたよ!
外の通りで新聞売りが号外を配る声がする。

アレクセイがモスクワへ発った数日後―。

朝食に下りたユリウスは、その日の食堂が酷く落ち着かない雰囲気であることに気が付いた。

― ボリシェビキの連中が…

― 蜂起は…失敗に終わったらしい…

食堂の宿泊客の間で囁かれる声を断片的にユリウスの耳が拾う。

― あの…。モスクワの…様子は…。

テーブルで話し込んできた宿泊客にユリウスが恐る恐る話しかける。

― おはよう。お嬢さん。いやね、モスクワ蜂起したボリシェビキの連中がね…どうやら昨日制圧されたようなんだ…。あ!号外、よかったら見るかい?
そう言って宿泊客の一人がユリウスに号外を渡した。

―あ、ありがとうございます。

なるべく平静を装いユリウスはその号外を受け取った。

そそくさと朝食を済ませ、ユリウスはその号外を胸に抱えて部屋へと戻る。

震える手で号外を開き、紙面に目を通る。

【12月某日 ソビエトによるモスクワ武装蜂起、レオニード・ユスーポフ陸軍親衛隊長率いるセミョノフスキー連隊の援軍により制圧される。
これによって市街戦は終結を見、武装蜂起に参加したボリシェビキは全員逮捕。近く首都ペテルスブルグに移送され、刑が確定する模様―】

ユリウスの手から、号外が床に滑り落ちる。

― うそ…。いやだ…いやだいやだいやだ…いやーーーーー!!
その場に崩れ落ち、言葉にならない悲鳴が喉元から込み上がって来る。

そんな母親のただならない様子に反応するかのように、ベッドに寝かされたドミートリィも火が付いたように泣き出す。


どのぐらいそうしていただろう…。床にへたり込んで小さな子供のように感情のこみ上げるまま泣き続けていたユリウスに、ドアをノックする音が聞こえた。

「はい?」

嗚咽をあげながらも、それでも何とかドアの向こうに返事をする。

「エーゲノルフさん?…お客様が見えてるけど…お通ししてもいいかい?」

「…どちら様でしょうか?」
涙を拭いながらユリウスがドアの向こうに尋ねる。

ドアの向こうでその客人の名前を確かめているようなやり取りが微かに聞こえて来た。

「カルナコフさん。ミハイル・カルナコフさんと仰る方のようだが…あんた知り合いかね?」


― ミハイル・カルナコフ…

ユリウスは数日前―、アレクセイがモスクワへ発つ最後の晩に彼女に申し送りした事を思い出した。

― 俺に何かがあったら…、ミハイル・カルナコフという男にお前たちの事を託しているから…。その時は…奴を頼るといい。…俺とはガキの頃からの知り合いで、古い同志だ。

夫のその言葉を思い出したユリウスが「どうぞ…」と掠れた声で返事をする。

ドアが開き―、宿屋の主人が黒髪のアレクセイと同年代ぐらいの背の高い男を部屋へ促し、立ち去って行った。


その男―、ミハイル・カルナコフは、泣きはらした目をしたユリウスを一瞥すると、フンと小さく鼻で嗤った。

「なんだ…。あのアレクセイが惚れぬいて一緒になった女だって聞いたから…どんなにイイ女かと思ったら…まだほんのお嬢ちゃんじゃないか」

その不躾な言葉に―、ユリウスが屹とミハイルを睨みつける。

「おお~っと!鼻っ柱の強さは…いっちょ前か。あいつ気の強い女が好きだったもんなぁ」
ヒュウっと口笛を吹いて、ミハイルは自分を睨みつけるユリウスに向かって軽く両手を挙げた。

「俺はあいつに―、アレクセイに頼まれたんだ。‟俺に何かあった時は、俺の女房と子供の力になってやってくれ“とな。…で、号外見たんだろ?あいつに何かがあったから…こうして俺があんたの所に馳せ参じたって訳さ。…どうするかい?お嬢ちゃん。その子供連れて…故郷に帰るかい?今だったら何とかして国境を越えさせてやることもできなくはないけど…」

アレクセイはこの目の前の嫌味な男に全幅の信頼をおいていたらしい。自分がドイツ人であるという事も知っているようである。

ユリウスはその男―ミハイル・カルナコフに向き直ると首を横に振った。

「ううん。アレクセイと…約束したから…。ここで待ってる…って」
― それに…ぼ…わたしは全てを捨ててアレクセイについて来たから…。もう故郷に…帰る場所はないんだ。

「…そうか」

「うん…」

「わかった。…じゃあ、これからの話をしようぜ。あんたはこれから…一人でこのガキをここペテルスブルグで育てなくちゃならない。それは分かるな?」

ミハイルの言葉にユリウスは無言でうなずく。

「お嬢ちゃん…、何か特技とか…身につけた技能とかあるか?」

ミハイルの質問にユリウスは少し考えてから

「ピアノと…外国語…ドイツ語とフランス語。それからタイプライターと、簿記も少し分かります」

「よ~し。上等だ。これからの住まいと仕事は…俺が近々何とかしてやる。お嬢ちゃんは…ほかに俺にしてほしいことはあるか?」

「…お嬢ちゃんって言うの…、やめて」
少し恥ずかしそうな顔でユリウスは上目遣いでミハイルを見上げる。

「OK。悪かった―。マダム・ミハイロヴァ。…じゃあ何て呼べばいい?」

「ユリア…。私の名前はユリア」
―でも、その呼び方…マダム・ミハイロヴァも…悪くないね。

ユリウスが口角をゆっくりあげて、いつもの彼女独特の―、少し勝気な笑顔を見せる。

「お!いい顔出来るじゃねぇか。―あんたそうしてるとなかなか別嬪さんだな。いつもそういう顔してろよ」

ミハイルに思いがけず誉められ、ユリウスは少しはにかんだようにクシャっと笑う。

「ミハイル…」

「ん?」

「ありがとう。…これから、お世話になります」
そう言って目の前の夫の友人に深々と頭を下げた。

「いいって…。頭あげろよ」


―それから…もう一つお願いがあるんだけど。

―ん?何だ?言ってみろよ。

―ボリシェビキの生き残りが…アレクセイがペテルスブルグに移送されてきたら…、わたしを徒刑場へ連れてってくれるかな。

―…いいぜ。

―ねえ、ミハイル…。

―なんだ?
―アレクセイは…どうなっちゃうのかな?
―さあな…。だけど、あいつは元々反逆者の重罪人の弟の…お尋ね者だ。…よくてシベリアへ終身刑か…。
そこまで言うとミハイルは言葉を濁す。彼が吞み込んだその続きは―、ユリウスにも容易に想像がついた。

二人の間に重い沈黙が流れる。

「…ボリシェビキの奴らが移送されて、刑が確定するのは3日後だ。―3日後のこの時間に…迎えに来てやる。目立たない恰好をして待ってろ」

その沈黙を打ち破るようにユリウスにそう告げると、ミハイルはことさらにおどけたような口調で「じゃあな、マダム・ミハイロヴァ」と言って、部屋を後にした。
作品名:10 モスクワ蜂起 作家名:orangelatte