26 イゾルデ
目覚めたユリウスはレオニードに肩を抱かれて、怪我を負ってから初めて離れの棟から外へ出た。
身体を締め付けないゆったりとした生成り色のエンパイアドレスの上にガウンと更にその上に彼女の瞳の色を思わせる鮮やかなブルーのカシミアのショールを羽織り、柔らかなキッドの室内履きで、そろそろとレオニードに背中を支えられながら、ベッドから立ち上がる。
一週間ほど横になっていたせいか、立ち上がった瞬間軽い立ち眩みがし、即座にレオニードに支えられる。
「大丈夫か?」
レオニードの黒い瞳が心配そうにユリウスを見つめる。
「…うん。ちょっとふらついただけ。…なさけないね」
ユリウスが困惑したように微笑む。
「ゆっくりでいいぞ、イゾルデ。私に寄りかかれ」
レオニードはユリウスの背中を片手でホールドし、もう片方の手で彼女の左腕を取って、彼女の歩調に合わせてゆっくりと歩き出した。
母屋と渡り廊下繋がりになっているオランジェリーは、離れの棟からだと一旦庭を通り、母屋に繋がる入口とは別のドアから入るようになる。
レオニードに伴われユリウスは離れの建物を出て、広大な敷地の庭に足を踏み出す。久々に味わう土の感触と、冬が近づき光は弱くなってきているものの、午後の西日がユリウスの白い頬を照らす。
その光の眩さにユリウスは碧の目を僅かに細める。
「大丈夫か?頭は痛まないか?」
そんな彼女をレオニードが慮る。
「うん、大丈夫だよ。…風が気持ちいい」
秋の終わりの冷たい風がユリウスの金の髪を靡かせてゆく。
ロシア帝国きっての大貴族にして皇帝よりも富裕であると言われた名門ユスーポフ家のオランジェリーは、ヨーロッパ諸国の王室が所有する植物園並みの規模と広さを誇っていた。
外の世界はもう冬がすぐそこまで迫っているというのに、ガラス張りのオランジェリーの中は春の盛りのような温かな温度に保たれ、そこかしこで未だ薔薇や蘭、それにみたこともない南国の植物などが咲き誇り生い茂っていた。一歩足を踏み入れると濃厚な花の香が全身に纏わりつく。
「暑い…」
念のためにガウンの上にカシミアのショールを羽織って来たユリウスが、オランジェリーの室温に頬を上気させる。
「そのショールを貸しなさい」
レオニードがユリウスのショールを預かる。
レオニードからそろりと離れ、ユリウスが咲き誇る薔薇の一群に向かってゆっくりと歩みを進める。
「綺麗!まるで春の盛りみたい」
赤、ピンク、白、絞り…様々な色の薔薇が春の盛りのように満開に咲き、芳純な香りを振りまいている。
ふっくらと開いたその花に手を添わせて、顔を近づけ香りを吸い込む。
「いい香り…」
「その花が気に入ったのなら、あとで切って部屋に活けさせよう」
「いいの?」
「勿論だ」
レオニードが庭番に薔薇を切って離れに持ってくるように申しつける。
「花は…切られて悲しまない?」
ユリウスがその整った顔にわずかな憂いをうかべて庭番の老人に尋ねる。
「大丈夫ですよ。お嬢さん。薔薇はね、咲いたら切ってあげた方が花のためにも樹のためにもいいんです。だからこれはお嬢さんのお部屋で愛でてあげて下さいね」
愛らしい少女が投げかけた素朴な質問に、庭番はその深く皺の刻まれたいかつい顔を綻ばせ、まるで孫娘に言い聞かせるように答える。
「そう…。よかった」
「水揚げをしたら、離れの棟へ持って上がりますので、メイドに活けてもらうとよいでしょう」
そう言って庭番は手早く薔薇を切り水をたっぷり張った桶にその薔薇を放つと、「よっこらしょっと」とその桶を手にオランジェリーから退出して行った。
「あ!蝶!!」
温かな温室内では動物の生態系も若干外の世界と異なってくるのだろうか、ガラス張りの温室の天井を蝶が飛び交っていた。
オランジェリー内の睡蓮の花が浮かぶ噴水の傍らに据えられた大理石のテーブルと籐椅子に腰かけ、午後のお茶を頂きながら、ユリウスが天井を指さした。
そんなガラスの中の常春の楽園の花々や蝶に歓声をあげるユリウスの姿をレオニードは目を細めて見守っている。
「身体は大丈夫か?久々に動いたから疲れたのではないか?お茶が済んだら部屋へ戻ろう」
「大丈夫だよ。…ここは温かいから、こわばっていた身体も動かしやすい」
「そうか。そう言えばドクターが傷も塞がって来たからそろそろ風呂を使ってもよいと言っていたぞ。今夜は風呂を用意させるからバスタブで身体を存分にほぐすといい」
「本当?!嬉しい。…ありがとう」
風呂ときいてユリウスの碧の瞳がキラキラと輝いた。そんな彼女の仕草表情すべてを受けとめるかのようにレオニードの黒い瞳が愛おし気に包み込んだ。
作品名:26 イゾルデ 作家名:orangelatte