30 潜入
ミハイルが知っている限り、唯一のその人物はー、レオニード・ユスーポフ侯。
二人が消え、そして登場したあの暴動の日ー、キーマンのユスーポフ侯は一体どこで何をしていた?
ミハイルが自問する。
あの暴動に、ユスーポフ侯も恐らく市街に出動していた筈だ。
一方で病院にも遺体安置所にも収容されていなかったユリア―。
もし、もしもだ。
あの暴動で負傷したユリアが病院でなく、あの男に保護されていたとしたら?
ああ!でもそれならば何故宿敵の屋敷にあの勝気な女が大人しく保護され続けている理由がある?
第一その理由が通るならば、俺を見た時のあの反応の説明がつかん!
またしても仮説が暗礁に乗り上げ、ミハイルは書き出した紙をグシャグシャと丸めて天井を仰ぐ。
その時、今日あの屋敷の離れで会ったあの娘の言葉がミハイルの脳裏に蘇った。
― あなたは、誰ですか?ぼくを知っているの?…ぼくは…一体…
ぼくを知っているの?
ボクヲ、シッテイルノ?
初対面の人間に「私はあなたを知りません」と言うのではなく、また「どこかでお会いしましたか?」と聞くのでもなく、「私を知っているのか?」と聞くのは、些か不自然ではないだろうか?
まるで自分の事が分かっていないような…。
― あ‼︎
まさか、荒唐無稽だが…、怪我で重傷を負ったユリアが、そのせいで記憶に障害を負った可能性は⁈
あの最後の、言いかけた言葉の続きは、「ぼくは一体、誰なの」だったのかもしれない。
あの二人が同一人物だとしたら…、ユリアは俺の事を知らないふりをしていたのではなく、本当に俺のことを知らなかった…というか覚えていなかっのだ!!
ミハイルは自ら導き出したその答えに慄然とする。
― マジかよ⁈俺の事はおろか、あいつ、ミーチャの事も、アレクセイの事すら忘れてしまったって事か⁈そんなあいつを…無理やりあそこから奪還してきたところで、一体どうなる?第一あいつを探し続けている支部の奴らには何と説明したらいいんだ?あいつの唯一の肉親のミーチャはどうなる⁈
その仮説が正しいとして、そこから起こり得る様々な懸念にミハイルは思わず頭を抱え、低く唸る。
― いや。まだそう決まった訳じゃない。もう少し、あと少しだけ調査をしよう。だが…もう潜入は無理だし…誰か屋敷の者から上手いこと情報を聞き出すしか…。
考え出すとキリがない…。
いつの間にかウォッカの瓶は1本空になっていたが、ミハイルの目と頭はそれに反して冴え渡り、今夜は到底眠れそうになかった。
ウォッカを共にミハイルの長い夜は静かにゆっくりと深まっていく。
作品名:30 潜入 作家名:orangelatte