38 ごめんね…
― ムッターは…どうして迎えに来てくれなかったんだろう?ぼくが悪い子だったから?ぼくが朝ムッターをお見送りするときに、泣いちゃったから?だからムッターはぼくの事が嫌いになっちゃったの?あぁ!ごめんなさい。もう、ぼく泣きません。ムッターが帰って来るまで絶対泣かないから、お願い!ムッターを返して。
マルキストは宗教を信仰しない。ゆえにその中で育てられたミーチャも神というものの概念が乏しかったが、ミーチャが捧げた真摯な祈りは、間違いなくミーチャ自身すらも知らない「神」のようなものに捧げられていたものだったのだろう。
しかし―、その祈りもむなしく母親はいつまで経ってもミーチャの元に戻って来ず、いつしか季節は短い秋から冬の気配を漂わすようになってきた。
冬の気配が濃くなってきた11月末の夕刻。ミーチャは、いつも母親が迎えに来てくれた時間になると通りに出て、来ぬ人の面影を待ち続ける。木枯らしが吹きつけ、ミーチャはその冷たさに身震いする。
―あの角を曲がっていつも僕に向かって走って来るムッター。金の髪で、綺麗で、いい匂いがして…。顔は…!!
そこまで思い浮かべて、ミーチャは愕然とした。
あれだけ待ち焦がれていた、待ち焦がれていた筈だった母親の顔が―ひどく曖昧になって思い出せなくなっていたのだ。
幼い子供の二か月は―、大好きな母親の面影さえも薄れさせてしまうのに、十分すぎるほどの時間だった!
― どうしよう!ムッターが、ぼくの中からいなくなってしまう。お願い!ムッターを連れていかないで。
思慕はますます募っていく反面で、日一日とぼやけていく母親の面影に、ミーチャはひどく動揺した。
日のすっかり暮れた通りの街角を、涙が零れないよう屹と睨みつけながら、ミーチャは
薄れていく母親の面影に向かって心の中で呼びかける。
― ムッター!お願い。早く来て。…早く来てくれないと、ぼくは…ぼくは、ムッターの事が分からなくなってしまうよ。
ミーチャの必死の呼びかけにもかかわらず、その通りの角を曲がって来る人はなく、残酷にも早々に西に堕ちた冬の陽の代わりに空には冷ややかな光を帯びた月が現れ煌々と夜の街を照らしていた。
― もう…だめだ。ぼく…我慢できない。
二か月の間我慢し続けていた涙が遂にミーチャの碧の瞳に溢れ出し、視界がぼやけて来る。
大きな嗚咽が喉の奥からのぼってきた―その時だった。
通りの角を曲がって現れた金色の頭のシルエット!
そのシルエットはミーチャを認めると、両手を前に突き出し、身体を前傾させるようにして走り寄って来た。
急ぎ過ぎて、石畳の窪みに足を取られよろけながらも、ミーチャめがけてめちゃくちゃに走り寄って来る。
「ミーチャ!ミーチャ!!」
― あぁ!ムッターだ。ぼくのムッターだ!!
ミーチャがそう思った瞬間、走り寄って来た母親が彼の身体を強く強く抱きしめた。
このやわらかい感触、優しい匂い。ムッターだ!!
ミーチャが今まで堪えて堪えて堪え続けていた涙がポロリと落ちそうになったその瞬間―。
ミーチャを抱きしめている母親が、わあわあ声を上げ端正な美貌をくちゃくちゃにして泣いている事に気が付いた。
その母親の姿に、ミーチャの出かかった涙と嗚咽が引っ込む。
その、まるで小さな子供のように自分を抱きしめ泣き続ける母親の柔らかな金の髪にそおっと小さな手を伸ばす。
母親の頭を―背中をその小さな手で優しく撫で続けながら、回らない舌で母親に問いかける。
「ムッター、どこか痛いの?泣かないで?…痛いの痛いの飛んでけ…」
泣き続ける母親に、いつまでもミーチャはその髪と背中を撫で続け、回らない舌で「痛いの痛いの…飛んでけ」と繰り返した。
作品名:38 ごめんね… 作家名:orangelatte