39 子供の情景
「ムッター!高いねぇ!僕達のうちはどっち?」
天辺まで上がった観覧車のゴンドラの窓からミーチャが街を見渡す。
「うーんと…。ペトロパブロフスク要塞があれだから…」
ペトロパブロフスクー
あの要塞に三年前の冬、夫は蜂起に敗れて捕らえられ、シベリアへ送られたのだった。
いつ帰ってくるか、いや、それどころか過酷な強制労働で今日命を落としてもおかしくはない夫の身が不意に案じられ、思わずユリウスがおし黙る。
そんな母親の様子にミーチャが
「ムッター?」
と俯いた彼女の顔を心配そうに見上げる。
幼い愛息の碧の瞳に見つめられたユリウスが、現実に引き戻される。
「ううん!ゴメン、何でもないよ。あれがペトロパブロフスク要塞だから、ウチはあそこらへんかな?」
気を取り直してユリウスがアパートのある地区の屋根を指差した。
「ふうん。でも屋根だけだとよく分からないね」
「そうだね」
やがて束の間の空の旅を終え、観覧車のゴンドラは地上へと到着した。
〜〜〜〜〜〜
「楽しかったね」
「うん!」
地上へ降りて再び広場を見て回る。
そこへ間も無く始まる出し物のビラを配って歩いている芸人一座に遭遇した。
華やかな衣装を着け、ある者は太鼓やクラリネット、トランペットといった楽器を奏で、ある者は「さあさあ、東西東西〜〜。間も無くアンドラーシュ一座の楽しい見世物が始まるよ〜!音楽にダンス、手品に動物の曲芸!何でもござれだ」と口上を高らかに叫びビラを配って回る。一座の人間の後にはやはり着飾った犬や猿、ポニーらの愛らしい小動物たちが続いている。
賑やかな一向はユリウス親子の前で立ち止まった。
「僕、優しそうなお姉さんと一緒でいいねえ。これから面白い出し物をやるから是非見に来てね」
道化の格好の座員がミーチャの目の高さに屈みこんで、チラシを手渡し亜麻色の頭を撫でる。
傍の赤い飾り羽をつけたプードル犬が尻尾を振ってミーチャに前足をかけた。
「オリカも来て欲しいって言ってるよ」
このプードル犬はオリカという名前らしい。尻尾を振ってミーチャに纏わりつくオリカのふわふわの頭を撫でると嬉しそうにミーチャの手を舐めた。
温かな舌とひんやり湿った鼻の感触がこそばゆい。
「じゃあミーチャ、最後はコレ、行ってみようか?」
ユリウスの提案にミーチャが大きく首を縦に振る。
「ありがとう〜〜!じゃあお姉さんと坊や、待ってるよ」
ー また後でね。
賑やかな芸人一座の客寄せは再び音楽を奏でながら二人の前から遠ざかって行った。
早速二人はビラに書かれた案内図を頼りに会場のステージへと向かう。
開演までやや時間があったためか、まだ客はまばらで二人は最前列に座ることが出来た。
「ムッター、楽しみだねえ」
「よく見える席に座れて良かったたね」
そうこうしているうちに、ブラスバンドの音楽隊の演奏に合わせて、着飾ったポニーに乗った猿や後足立ちでチョコチョコと歩くヒラヒラのスカートを履いた犬たちが舞台に現れ、見世物が始まった。
〜〜〜〜〜〜
そのステージでは動物のショーや奇術、そして激しくも、どこか物哀しいジプシーの音楽と踊りが披露された。
ユリウスとミーチャは可愛らしい動物の芸に歓声を上げ、奇術に四つの碧の瞳を見開き、そして歌と踊りに手拍子を贈った。
ステージもたけなわとなった頃合いを見て、動物たちが籠や帽子を持って客席にやって来る。
観客たちはその帽子や籠にコインや紙幣を入れていく。
「ミーチャ…」
ユリウスたちのところに籠を咥えた白い大きな犬が回って来た。
ユリウスはミーチャにコインを渡して籠に入れるよう促す。
その時ー
犬の背中にチョコンと乗っかっていた小さな猿がユリウスに飛びついて来た。
「キャ!」
急に子猿に抱きつかれたユリウスが小さく叫ぶ。
子猿はユリウスの柔らかな懐に擦り寄るように抱きつくと、彼女の二つに編み下げた金のおさげを小さな手で掴んでじっと彼女の胸の温もりに身を委ねている。
「あらあら…」
子猿に懐かれたユリウスは驚きながらも、その頑是ない小さな身体を抱きしめた。
「あ〜〜!ゴメンなさいね。お姉さん!…コラ!キキ!そのお嬢さんはお前のお母さんじゃないよ」
ー すいません…。こいつ、ついこないだお母さんを亡くしたばっかりで…。コラ!離れるんだ。
慌てて道化が走り寄って来て、ユリウスの懐にウットリと収まった子猿を引き離そうとする。
子猿は黒い大きな目を見開いて離れまい!とユリウスの胸にギュッと抱きついた。
「コラコラ…」
困ったような道化の声に
「あの…。お代を回収して回る間でよければ、この子、このまま抱っこしておきますが?」
とユリウスが申し出る。
「そうですか?…しょうがないな。キキ、今日だけだぞ?優しいお姉さんでよかったな」
道化がそう言ってキキと呼ばれた子猿のおでこを人差し指で軽くつついた。
キキは安心しきってユリウスの懐に身体を埋める。
小さな片手はユリウスのおさげを握りしめ、もう片っぽうは人間の子供のように親指をチュウチュウと吸っている。
「じゃあ一回りしたらまた来るからな。キキ、お姉さんを困らすんじゃないぞ」
道化の言葉に
「お姉さんじゃないよ。ムッターだよ」
「え?」
「お姉さんじゃなくてムッター!」
ー 僕のマーマだよ。
さっきから正そう正そうとしていた事をとうとうミーチャが口にした。
「お姉さんじゃなくて、坊やのマーマなのかあ!…いや、若く見えたからてっきり年の離れた姉弟かと…」
道化の男がピエロのメイクのまま目を見開いて二人を交互に見る。
なるほど言われると、今日のユリウスは女性党員のお下がりのサラファンに二つに分けて編み下げたおさげという出で立ちで、その服装はただでさえ可憐な彼女をますます若く見せていた。
道化に驚かれたユリウスが小さく肩を竦めてくすぐったそうにクスリと笑う。
「そうか…マーマなのか。じゃあ、若くて綺麗なお母さんに」
ー はい。
道化は帽子からポンと赤い花を出すとユリウスに差し出した。
不意に花を贈られたユリウスの顔がほころぶ。
「ありがとう」
「それから、坊やにも」
ー お母さん大切にするんだぞ!
道化が指をパチンと弾く。
そして弾いた指に現れたカラフルな包み紙の飴玉を、ビックリ顔のミーチャに差し出した。
「ありがとう」
ミーチャが母親に生き写しの碧の瞳を輝かせた。
作品名:39 子供の情景 作家名:orangelatte