44 もう一つの窓の運命Ⅱ
― あなたと別れて…そしてアルフレートにも棄てられた私は…、一人であの子を…ユリウスを産んだの。せめて男の子だったら…男子のいないアーレンスマイヤ家の跡取りとしてあの家の財産を継ぐことが出来たかもしれないけど…生まれた子は…女の子だった。それは綺麗な綺麗な女の子だった。だけど失意の私は、…あの子を…産まれた可愛い女の子を、男の子として届け出て…、そのまま性を偽って育てたの。ヘルマン、ユリウスは―、男の子じゃなくて…本当は女の子なの。綺麗な綺麗な…私の娘なの。…酷い女でしょう?魔が差した…なんて言い訳で許されるものではないわよね。…ユリウスは心もとても綺麗な子で、優しい子だった。そんな理不尽な自分の人生を私のために全て受け入れて、男の子として私のために生きてくれていた。本当はとても女の子らしい子なのに…。色々我慢して…秘密がばれないように常に周りに神経を張りつめて…。でもここ一年でびっくりするぐらい美しく…日々娘らしく成長していくあの子を見て…、正直もう限界だと思った。多分…あの子もそれは薄々と感じていたのではないかと思うわ。…だから、もし…、この失踪がそれに起因するものだとしたら…、私は…、生きていてさえいてくれれば、あの子がもう男の子のユリウスとしてこの世に存在してくれていなくても、見つからなくても、いいのかな…と思っているの。ただ…、元気で、出来れば幸せでいてくれれば…」
ヘルマンは、そんなレナーテの口から出た衝撃の告白を、ただただ黙って聞いているほかなかった。俄かに信じがたい事実―、教え子のユリウス・レオンハルト・フォン・アーレンスマイヤが実は女性だった と。
言われてみれば確かに、あの年の男性にしては細く華奢な手をしていた。成長に個人差はあるにしても、皮膚の薄い、柔らかそうなあの手は、やはり男性のものではない。
ミサの聖歌隊のソロを務めたあのソプラノも、ボーイソプラノではなく女性としての彼女本来の声だったのだろう。
「君には…全く驚かされっぱなしだ。顔を上げて?レナーテ」
その告白を終えて、俯くレナーテの頬を大きな両手で包んで上向かせる。
「確かに君のしたことは、とても重い事だ。でもそれは―君が、15年間愛する娘に無理を強いて周りを欺き続けた、君自身が一番身にしみている事だと思うから…僕はそれに関しては君を責めるつもりはないし、何も言わない。ただ、今後ユリウスが…どんな姿で戻って来たとしても、僕は彼…いや、彼女を迎えてあげるつもりだ。―もちろん、君と一緒にね。もし彼女が帰ってくることがあったら、他の人はどう言っても僕たちだけは「おかえり」と、ありのままの彼女を迎えてあげよう?― レナーテ。僕と一緒になってくれないか?この街を出て…そうだ、この消印のある街で、二人であの子を待っていようじゃないか」
― もう、僕は君なしでは生きていけない。昼も夜も…君と一緒にいたい。
ヘルマンのビロウドのような灰色の瞳がレナーテを見つめる。
その瞳に見つめられたレナーテが…一瞬の逡巡の後に、娘と同じ碧の瞳を潤ませて頷いた。
「ありがとう…。レナーテ」
― ユリウスなのだけど…あの子の事を殊に可愛がっていた上級生にクラウス・ゾンマーシュミットというヴァイオリン科の生徒がいたんだ。クラウスと名乗っていたが恐らく彼は外国人だったんだと思う。言葉のイントネーションが僅かに異なっていたからね。そいつが先日急に学校を退学して、街を出て行ったんだ。…思えばユリウスの失踪と時期を同じくしていたように思う。…ねえ、レナーテ。クラウスは…今にして思えば、きっとあの子が女の子だったことを知っていたような気がするんだ。まあ…男子校にありがちな…そういう仲なのかもしれない と最初は思っていたけど、あれはきっと彼があの子の事を女性として可愛がっていたのじゃないかな。だから…きっとあの子は…クラウスについて行ったのじゃないかと、僕は思うんだ。あの子はきっと…彼の傍で女性としての幸せを手に入れて、その幸せと引き換えに今までの人生をすべて捨て去ったのじゃないかなと…僕は思うんだ。だから、その手紙はそれに対する「ごめんなさい」という彼女の気持ちじゃないのかな?
ヘルマンは腕に抱いたレナーテの耳元で優しく囁いた。
「あの子は…こんな人生を強いた私に「ごめんなさい」…と言ってくれたの?」
「ああ。…とても優しい…心の綺麗な子だね。きっと今頃彼女はクラウスの傍で幸せでいるよ。もし万が一…彼女が一人戻ってくるようなことがあったら…、きっとこの消印の…国境の駅に再び降り立つような気がするんだ。…だから、ここで…いつ彼女が戻ってきてもいいように、僕らは待っていよう?」
1905年明けてすぐ―。
ヘルマン・ヴィルクリヒ、レナーテと共にレーゲンスブルグを出奔。
以来この地を踏むことはなかった。
作品名:44 もう一つの窓の運命Ⅱ 作家名:orangelatte