敬意の払い方
池田三郎次が焔硝蔵に訪れたときには既に緊迫した空気が蔵中に広がっていた。中よりでは委員会の上級生二人が睨み合っている。遅くなりましたと言おうにも口を開くのも憚られるほどで、口を開け閉めしていたところを戸棚の整頓が終ったらしい二郭伊助に助けられた。
「あー三郎次先輩、お疲れ様です」
「伊助」
なにやら箱を持ってとたとたと倉庫へ駆けて行く伊助を引きずり蔵の隅へとつれて行く。
「何があった」
「え、ああ…」
いつもなら憎まれ口の一つでも叩きながら軽快に話すはずの伊助の口が妙に重い。これはなにか深刻なことでもあったのだろうか。三郎次は眉を顰める。
「言いにくいことなのか?」
「いや、そういうわけじゃ…なんて言うか…喧嘩?」
「なんで聞き返すんだよ」
「よくわからなくて」
「…何があったのか言ってみろ」
うーん、唸りながらも伊助はぽつりぽつりと小声で現状に至るまでの経緯を話し出した。
始まりは本当に何気なく突然だったそうだ。
『斉藤、殿。―には、在庫台帳の整頓をしていただきたい』
『はい?』
もうほんと、ぼくびっくりしましたよ。そう呟きながら伊助は続ける。
「久々知先輩、知らなかったでしょ、タカ丸さんのこと」
「なにを?」
「編入生だったとか、六年生と同じお年だとか」
「ああ…そうだったな」
「で、曲者追っ払った時からどうしようって思ってたらしくって」
「なにを?」
「なんて呼んだらいいか」
「は?」
気の利く後輩が、本人から吐露された内容に自身の見解を含めて曰く。
久々知兵助という男はそれはそれは真面目な人間である。それは自ら自覚はしていないが他人の口を借りれば『堅物』の一言に、仲のよい仲間からの『馬鹿じゃないかと思えるほど』の形容詞を加えてもなお余りあるほどで、その性質は学業に飽き足らず生活・精神にも一貫している。即ち、年上を敬い、経験者を尊ぶことをよしとする心の持ち主だ。そんな兵助の属する委員会へ配属された斉藤タカ丸の存在に、兵助はいたく喜んだ。
「全然そんな雰囲気出してませんでしたけどね」
共に過ごすこと早数月。人手の足りなかった委員会は最初の頃こそ勝手を知らないタカ丸に教えるため手間がかかったが、時折突拍子もないことを行うものの今では負担の大きかった兵助の補佐役として立派に役立っている。学業に関する知識が不足していたところは学習不足からくるものなのだろうと考えていたのだそうだ。
「その一言で済ませるところが先輩らしいですよね」
そんな折に件の事件が起こった。そこで兵助は初めてタカ丸が編入してきた経緯を知る。初めて斉藤タカ丸という人物を一から知り、自身の誤りを知る。それからが苦悩の日々の始まりだった。ただ年上なだけであれば、これほど悩むことはなかった。兵助はその数ヶ月でタカ丸の人となりを知った。その腕を知り、心を知っていた兵助がタカ丸の素性を知った瞬間、自分の中の敬意を払う対象の条件を一気に満たしてしまったのだ。知らなかったとはいえ、時として相手を軽んじた態度をとったこともある。そのことは兵助の心に重く、重く、重く圧し掛かり―
「―にしては全く態度に出てなかったですけどね」
隙を見て謝罪し、撤回を画策するも―
「タカ丸さんの顔見たら躊躇っちゃうんですって。可愛らしいですよね」
「おまえ先輩に可愛らしいとか」
「だってタカ丸さんが来るまでそんなこと全然なかったじゃないですか。ぼく久々知先輩の印象ずいぶん変わりましたよ」
「…確かにそれはそうだけど」
そうして悩み続けること数月。
「とうとう思い余っちゃったみたいで、今に至ります。普段真面目な方が思い切ったら恐ろしいですね」
「…おまえそんなわりかしどうでもいいみたいに」
「でも急にそんなこと言われても困るじゃないですか」
「…確かにそれはそうだけど」
「タカ丸さんはあんな方だから『先輩は先輩、年齢は関係ないです!』って」
「ああ…」
「だけど先輩が納得がいかないって」
「はぁ」
伊助は手にした箱を抱きかかえながら困ったように笑う。
「『年上を敬う心は大事なことだ。今までの非礼を詫びたい』って。形から入ることでなかったことにしようとしてるみたい」
「そんな無茶な」
「で、とりあえず久々知先輩はタカ丸さんを斉藤呼びから斉藤殿に変えたいんだって。ついでに自分も先輩と付けなくていいって」
「そんな極端な」
「タカ丸さんはそんなの嫌だから今まで通り久々知先輩、斉藤、で行きたいって」
三郎次は苦笑した。諍い―と言うべきかどうかは甚だ悩ましいところだが―の場に居合わせたわけではないが、状況がありありと目に浮かぶ。それからどうしてこうなったのか、その先の言葉を待つも伊助の口は閉ざされたままだ。
「…で?」
「…以上ですけど」
「は?」
聞き返す三郎次に伊助は小首をかしげて応じる。三郎次は再び問う。
「それだけ?」
「はい」
それからもう半刻ほどあんな感じですよ。ちらりと背後に目をやり、伊助は言う。
「なんだそれ、くっだら…」
ない。思わず声を抑えることすら忘れて口に出た言葉を慌てて飲み込んだ。原因の二人のことを忘れてしまっていたが、距離たるや二丈あるかないか。ましていつも以上に静まり返った蔵の中だ、聞こえていないわけがない。
「…口が過ぎました」
「いやいい、言いたいことは分かる」
静かながらも迫力のある声で兵助が答える。
「だが、人は時として譲れぬものがあるのだ」
射抜くように睨み付ける先には同じように強い意志を持った目が在る。いつもと異なり鋭く光る視線は年齢相応、いや、それ以上の迫力を持ってして三郎次を圧迫する。
「―なんていうか、退くに退けなくなっちゃったんでしょうね。って、こんなことぼくから言うのもあれだし、しょうがないからとりあえず一人でできることからやろうかと手付かずだった箇所の整頓とかしてました」
三郎次先輩もやりませんか。平和な笑顔と共に建設的な意見を述べる後輩に三郎次は感服した。さすがは組、動じない。いや、そんなことよりもだ。相変わらず睨み合ったまま動かない二人の上級生に目を向ける。―こんな内容じゃなきゃ充分に憧憬に値する雰囲気を醸し出しているのに。言い知れぬ落胆が三郎次を襲う。
三郎次の見る久々知兵助は、タカ丸が入ってきてからというもの伊助が言っていたように酷く印象が変わった。随分と親しみ易くなったと思う。真面目で聡明で凛々しくて、憧れるばかりだった先輩がとても優しくて面倒見のよい方だと知ることができたのはタカ丸のおかげだ。それまでは言葉少なで無駄を嫌う孤高な方だとばかり思っていたし、その表情の薄さに畏怖の念さえ抱いていた。
人見知りの激しい三郎次の中にさえするりと入ってきた人物が兵助の心に取り入るのは、容易かったのか至難であったのか。かの先輩は気付けば滅多に見ることのなかった笑みを浮かべることが多くなった。素っ気無く冷たいものだと思っていた言葉は、簡単に述べることで理解しやすいようにと兵助なりに気遣った結果なのだと知る。温かい心の持ち主によって暴かれた真直ぐな心とその持ち主を二人の後輩が慕うのは当然のことだった。親しくなるにつれて尊敬の度合いが少しばかり下がったことは三郎次の中の極秘事項だ。
「あー三郎次先輩、お疲れ様です」
「伊助」
なにやら箱を持ってとたとたと倉庫へ駆けて行く伊助を引きずり蔵の隅へとつれて行く。
「何があった」
「え、ああ…」
いつもなら憎まれ口の一つでも叩きながら軽快に話すはずの伊助の口が妙に重い。これはなにか深刻なことでもあったのだろうか。三郎次は眉を顰める。
「言いにくいことなのか?」
「いや、そういうわけじゃ…なんて言うか…喧嘩?」
「なんで聞き返すんだよ」
「よくわからなくて」
「…何があったのか言ってみろ」
うーん、唸りながらも伊助はぽつりぽつりと小声で現状に至るまでの経緯を話し出した。
始まりは本当に何気なく突然だったそうだ。
『斉藤、殿。―には、在庫台帳の整頓をしていただきたい』
『はい?』
もうほんと、ぼくびっくりしましたよ。そう呟きながら伊助は続ける。
「久々知先輩、知らなかったでしょ、タカ丸さんのこと」
「なにを?」
「編入生だったとか、六年生と同じお年だとか」
「ああ…そうだったな」
「で、曲者追っ払った時からどうしようって思ってたらしくって」
「なにを?」
「なんて呼んだらいいか」
「は?」
気の利く後輩が、本人から吐露された内容に自身の見解を含めて曰く。
久々知兵助という男はそれはそれは真面目な人間である。それは自ら自覚はしていないが他人の口を借りれば『堅物』の一言に、仲のよい仲間からの『馬鹿じゃないかと思えるほど』の形容詞を加えてもなお余りあるほどで、その性質は学業に飽き足らず生活・精神にも一貫している。即ち、年上を敬い、経験者を尊ぶことをよしとする心の持ち主だ。そんな兵助の属する委員会へ配属された斉藤タカ丸の存在に、兵助はいたく喜んだ。
「全然そんな雰囲気出してませんでしたけどね」
共に過ごすこと早数月。人手の足りなかった委員会は最初の頃こそ勝手を知らないタカ丸に教えるため手間がかかったが、時折突拍子もないことを行うものの今では負担の大きかった兵助の補佐役として立派に役立っている。学業に関する知識が不足していたところは学習不足からくるものなのだろうと考えていたのだそうだ。
「その一言で済ませるところが先輩らしいですよね」
そんな折に件の事件が起こった。そこで兵助は初めてタカ丸が編入してきた経緯を知る。初めて斉藤タカ丸という人物を一から知り、自身の誤りを知る。それからが苦悩の日々の始まりだった。ただ年上なだけであれば、これほど悩むことはなかった。兵助はその数ヶ月でタカ丸の人となりを知った。その腕を知り、心を知っていた兵助がタカ丸の素性を知った瞬間、自分の中の敬意を払う対象の条件を一気に満たしてしまったのだ。知らなかったとはいえ、時として相手を軽んじた態度をとったこともある。そのことは兵助の心に重く、重く、重く圧し掛かり―
「―にしては全く態度に出てなかったですけどね」
隙を見て謝罪し、撤回を画策するも―
「タカ丸さんの顔見たら躊躇っちゃうんですって。可愛らしいですよね」
「おまえ先輩に可愛らしいとか」
「だってタカ丸さんが来るまでそんなこと全然なかったじゃないですか。ぼく久々知先輩の印象ずいぶん変わりましたよ」
「…確かにそれはそうだけど」
そうして悩み続けること数月。
「とうとう思い余っちゃったみたいで、今に至ります。普段真面目な方が思い切ったら恐ろしいですね」
「…おまえそんなわりかしどうでもいいみたいに」
「でも急にそんなこと言われても困るじゃないですか」
「…確かにそれはそうだけど」
「タカ丸さんはあんな方だから『先輩は先輩、年齢は関係ないです!』って」
「ああ…」
「だけど先輩が納得がいかないって」
「はぁ」
伊助は手にした箱を抱きかかえながら困ったように笑う。
「『年上を敬う心は大事なことだ。今までの非礼を詫びたい』って。形から入ることでなかったことにしようとしてるみたい」
「そんな無茶な」
「で、とりあえず久々知先輩はタカ丸さんを斉藤呼びから斉藤殿に変えたいんだって。ついでに自分も先輩と付けなくていいって」
「そんな極端な」
「タカ丸さんはそんなの嫌だから今まで通り久々知先輩、斉藤、で行きたいって」
三郎次は苦笑した。諍い―と言うべきかどうかは甚だ悩ましいところだが―の場に居合わせたわけではないが、状況がありありと目に浮かぶ。それからどうしてこうなったのか、その先の言葉を待つも伊助の口は閉ざされたままだ。
「…で?」
「…以上ですけど」
「は?」
聞き返す三郎次に伊助は小首をかしげて応じる。三郎次は再び問う。
「それだけ?」
「はい」
それからもう半刻ほどあんな感じですよ。ちらりと背後に目をやり、伊助は言う。
「なんだそれ、くっだら…」
ない。思わず声を抑えることすら忘れて口に出た言葉を慌てて飲み込んだ。原因の二人のことを忘れてしまっていたが、距離たるや二丈あるかないか。ましていつも以上に静まり返った蔵の中だ、聞こえていないわけがない。
「…口が過ぎました」
「いやいい、言いたいことは分かる」
静かながらも迫力のある声で兵助が答える。
「だが、人は時として譲れぬものがあるのだ」
射抜くように睨み付ける先には同じように強い意志を持った目が在る。いつもと異なり鋭く光る視線は年齢相応、いや、それ以上の迫力を持ってして三郎次を圧迫する。
「―なんていうか、退くに退けなくなっちゃったんでしょうね。って、こんなことぼくから言うのもあれだし、しょうがないからとりあえず一人でできることからやろうかと手付かずだった箇所の整頓とかしてました」
三郎次先輩もやりませんか。平和な笑顔と共に建設的な意見を述べる後輩に三郎次は感服した。さすがは組、動じない。いや、そんなことよりもだ。相変わらず睨み合ったまま動かない二人の上級生に目を向ける。―こんな内容じゃなきゃ充分に憧憬に値する雰囲気を醸し出しているのに。言い知れぬ落胆が三郎次を襲う。
三郎次の見る久々知兵助は、タカ丸が入ってきてからというもの伊助が言っていたように酷く印象が変わった。随分と親しみ易くなったと思う。真面目で聡明で凛々しくて、憧れるばかりだった先輩がとても優しくて面倒見のよい方だと知ることができたのはタカ丸のおかげだ。それまでは言葉少なで無駄を嫌う孤高な方だとばかり思っていたし、その表情の薄さに畏怖の念さえ抱いていた。
人見知りの激しい三郎次の中にさえするりと入ってきた人物が兵助の心に取り入るのは、容易かったのか至難であったのか。かの先輩は気付けば滅多に見ることのなかった笑みを浮かべることが多くなった。素っ気無く冷たいものだと思っていた言葉は、簡単に述べることで理解しやすいようにと兵助なりに気遣った結果なのだと知る。温かい心の持ち主によって暴かれた真直ぐな心とその持ち主を二人の後輩が慕うのは当然のことだった。親しくなるにつれて尊敬の度合いが少しばかり下がったことは三郎次の中の極秘事項だ。