アネモネ 白
白い花が揺れている。
それを屈んで、プロイセンは見入る。花など愛でる暇など無いほどに目まぐるしい命を賭けた日々は、あっという間に過ぎ去って、漸く、周りを見回す余裕が生まれた。プロイセンは視線を上げる。その視線の先には王の執務室がある。長い戦争が終わったばかりだというのに、王は休むこともせずに働いている。
「…早く、怪我治さねぇとなぁ」
右腕を吊り、杖は要らなくなったが左足を引きずってしまう。左目は砲弾の欠片が運悪く当たり、瞼を切ったその傷は塞がったがまだ瞼は開かない。人ならば失明していただろうが、プロイセンは国の具現化した存在なので、国の復興が進めば進むほどに傷は塞がっていく。
遅い春がゆっくりとこの地を巡り、そして短い夏が来る。少しだけきつくなった日差しにプロイセンは片目を眇め、息を吐く。
(…ま、大分、良くなったよな。…実際、帰ってきてから一月は寝込んだし。…流石に長いこと生きてるが、寝込んだのははじめてだっただな。…でも、なんつーか目を開けると、フリッツがいてさ…)
思い出すと何だか恥ずかしくなって、胸がきゅうっとなる。
城に入って、自分の部屋に入ったことまでは覚えているが、そこから先の記憶は曖昧で、気がつけばベッドの中だった。傍らに誰かがいて、絶えず世話を焼いてくれた。朦朧とする意識の中、水が飲みたくなって目を開ければ、必ず声がした。
「プロイセン、どうした?」
「…みず、ほしい」
「水か。今、飲ませてやろう。少し、身体を起こすぞ」
僅かに浮く背にクッションが差し込まれ、軋んだ背骨が楽になる。息を吐いたプロイセンの口元に吸い飲みの口が宛がわれる。少しづつ、水を喉へと流し込む。水は冷たく熱った喉を潤していく。瞳を瞬き、プロイセンは唇を拭った指の主を確認しようと脂で濁った目を眇めた。
「まだ、飲むか?」
「…ん。もう、いい」
声は優しく、頬を撫でる手のひらは冷たく気持ちがいい。それに頬を摺り寄せるとその手はゆっくりとプロイセンの頬を撫で、離れていく。水音がして、ひんやりとしたタオルが額と頬を拭いていく。
「寝巻きも寝具も汗で濡れたな。替えさせよう。プロイセン、少し動かすぞ?」
「…ん」
殆どされるがまま、身体を拭かれ、寝巻きを着替えさせられた。新しいシーツに張り替えられたベッドは心地よく、微睡みに引きずられる。それを見届けないうちに立ち上がったやさしい手の主の服を、プロイセンは反射的に掴んでいた。
「プロイセン?」
「…やだ。いくな」
心細くて仕方がなかった。弱っていたから。有償でも無償でもやさしくされるのはいつだって嬉しい。誰かも解らないのにいつもは絶対に言わないだろう駄々を捏ねた。それを訊いてくれると何故だか信じていて、信じていた通りその手の主は困ったように笑い、プロイセンが眠るまで傍にずっといてくれたのだ。
目が漸く開き、熱が引いて意識もハッキリしてきて、目を覚ましたプロイセンはきつく握り締めたままの左手が掴んでいたものの先を辿り、赤面した。
「目が覚めたか、プロイセン。目の濁りは大分無くなったようだが、熱はまだありそうだな。顔が赤い」
「えっ?ええ?!」
前髪を掻き上げられ、コツンと当たった額に目を閉じて、それから恐る恐る目を開く。青い瞳と目が合った。
「…ふむ。大分、良くなったな」
離れていく王にプロイセンは瞬く。一体、何が起こったのか解らない。
「医者を呼ぼう」
そう言って身体を起こした王は何かに気付いたように目を開き、それから困ったように笑った。
「プロイセン、離してもらえぬか?」
「…え?」
数秒遅れて言葉を把握し、何を言われているのか解らず、瞬き、そっと引っ張られたガウンに気付き、プロイセンは更に頬を紅潮させ慌てて手を離す。それに王は小さく笑うとプロイセンの額に口付けを落とし、部屋を出て行った。
呼ばれた医者は、峠を越えたことをプロイセンと王に告げた。
それに王はほっとしたように笑った。その顔は今前見たことが無い顔をしていた。…まるで、父親が子どもに向けるようなそんな顔だった。…そして、意識が戻って動けるようになって、自分がいた場所が王の寝室で付き切りで自分の世話をしていたのが、王本人だったと知り、顔から火が出るほど恥ずかしくて、…子どものように甘えてしまったと思うとどんな顔をしたらいいのか解らなくて…、二、三日程、避けているのだが、いつまでもこのままと言う訳にもいかない。自分はまだ「ありがとう」と、王に礼のひとつも言えていない。
「…今日こそ、逃げずにちゃんと言うぞ!」
意を決し、プロイセンは拳を作る。
「何を言うのだ?」
「うひゃ!?」
不意に背後から声を掛けられ、驚いた猫のように毛を逆立てたプロイセンはぎぎぎっと首だけを動かして振り返る。背後で穏やかに微笑んだ王がプロイセンを見下ろしていた。
「な、親父!いつから、お前、そこに…」
「半時間程前だ。そろそろ、休憩にしようと思ってな。いいチーズが手に入ったので、ケーゼクーヘンを作らせた。お前も食べるかね?」
にこにこと笑みを絶やさない王の言葉にプロイセンの腹が返事をするようにきゅうっとなる。それにプロイセンは赤面し、王はくすりと笑みを漏らした。
「笑うな!」
プロイセンは口を尖らせ、王を睨むがそれが可笑しいのか王の肩は小刻みに震える。殺しきれない忍び笑いにプロイセンは眉を寄せた。王は息を吐き、口元を緩めたままプロイセンを見つめた。
「…具合はもう良いのか?」
「…お陰さまで。…その、何だ…」
「何だ?」
「…心配掛けて悪かったな。…その、色々、ありがとう」
ごにょごにょと語尾をぼかして、プロイセンは俯いた。たかが一言であるのにそれを言うのが、ひどく照れくさい。それに王は目を細めた。
「お前の面倒を見るのは私の責務だ。…しかし、あれほどまでにお前が私に甘えてくれるとは思わなかったぞ」
恥ずかしさを上塗りするような言葉にプロイセンはダメージを受け、声を上げた。
「…ぐあっ!」
プロイセンは頭を抱える。穴があるならどこかに入ってしまいたい。
「何を恥じ入っている?」
「いや、だってよー、弱ってるとこ見られただけでも恥じ入りたいのに、…甘えたとか…駄目だろ。俺、国なのに…お前の手を煩わせて…」
ごにょごにょ言葉を濁すプロイセンの傍らに王はしゃがみこむとプロイセンの顔を覗き込んだ。
「良いではないか。私はお前の親だ。子は親に甘えるものだ」
その言葉にプロイセンは眉を寄せた。
「…いや、違うだろ?」
王とは国を統べる者であり、プロイセンは国家だ。それ以上でもそれ以下でもない。人間のような関係は持ち合わせてはいないのだ。
「お前は私を「親父」と呼ぶではないか」
王の言葉にプロイセンは言葉に詰まった。いつの間にか、そう呼ぶようになっていた。それを咎めもせずに、呼べば王は普通に返事を返すので昔からそう呼んでいたいたようになってしまっていた。
「…それはだな、」
自分は父も、母も無い。だからと言うわけでもないが、この王をいつの間にか父親のように想うようになっていった。