56 悪運
「ガリーナ、ここまで出来た!ここからどうすればいい?」
「どれどれ…。じゃあここからはね…」
ユリウスとガリーナが先程から熱心に取り組んでいるのは、編み物だった。
春に知り合って以来、この二人は歳が近いという事もあり、また、ユリウスが家庭に入って主婦と母親業に専念する事になったのもあり、急速に親しくなり、今や殆ど毎日顔を合わす間柄となっていた。
ただ親しいのみならず、ユリウスは学校教育を受けていないガリーナに、フランス語や英語、そしてタイプライターなどを教える代わりに、ガリーナはユリウスに編み物や手芸を教えたり繕い物の賃仕事を紹介するなど、お互いの足りない部分を得意な部分で補い合う、とても理想的な友人関係を二人は築いていた。
「ユリアが編んでるのはミーチャのセーター?いい色ね」
「ふふ…。でしょ?私が編んでるのがミーチャのセーターだって知って、アレクセイが「俺のじゃないのかよ?」って…ご機嫌ナナメになっちゃった」
「あら、ごちそうさま」
「でも大人のサイズだと…毛糸も沢山必要だから…ね」
「そうね…。最近…前以上に物が手に入りにくくなったわね…」
「うん…」
重苦しい空気が部屋を支配する。
その空気を振り払うように、ユリウスがガリーナの手元を覗き込む。
「ガリーナは何編んでるの?こないだとは違うものだね」
ユリアの質問に、ガリーナはちょっとはにかんで、でも飛び切りの笑顔で答える。
「これ…ね。赤ちゃんの帽子。ユリア、私ね、赤ちゃんが出来たの」
ガリーナの告白に、ユリウスは一瞬驚きの表情を見せた後、ガリーナの手を両手でギュッと握りしめた。
その喜ばしい報告に、彼女の碧の瞳はうっすらと涙すら浮かべている。
「おめでとう!ガリーナ‼︎…いつ頃生まれるの?」
「お医者様の話では、9月頃だって…。ああ、ユリア。私、お母さんになるのよ。あなたに話したら…だんだん実感が湧いてきた」
ガリーナは自分の手を握りしめたユリウスの両手を命の宿った自分の腹部に持っていった。
母親たちの歓声を聞きつけた、ミーチャがお絵描きの手を止めやって来た。
「ガリーナのところに赤ちゃんが来るの?」
「そうだよ…、ミーチャ。ガリーナはお母さんになるんだよ」
「ミーチャ…ここにね、小さな赤ちゃんがいるのよ」
母親の説明に今いち分からない という顔をしていたミーチャの手を取ると、ガリーナはその手を自分の腹部に持って行った。
「ふうん…。ガリーナのところに来るのは、小鳥の赤ちゃん?ネコの赤ちゃん?…僕は熊の赤ちゃんがいいなぁ」
ミーチャの発言にユリウスとガリーナは思わず大きく見開いた目を見合わせ、吹き出した。
「ミーチャったら…。人間のお母さんのところには人間の赤ちゃんしか来ないのよ」
声を出して笑いながらガリーナが答えた。
「そうなの?だってガリーナのお腹小さいから小鳥の赤ちゃんが入ってるのかなあと思ったんだ」
二人に笑われたミーチャがちょっと口を尖らせて言った。
「あはは…。そうかあ…。でもミーチャ、ガリーナの所に小鳥の赤ちゃんが来たら、ガリーナ、空の飛び方を教えてあげられないでしょ?だから人間のお母さんには人間の赤ちゃん、小鳥のお母さんには小鳥の赤ちゃん、それからミーチャの好きな熊のお母さんには熊の赤ちゃんが来るんだよ」
という母親の説明に
「そっかあ…」
と納得したようにミーチャが頷いた。
「これからね、どんどんお腹が大きくなって、夏が終わる頃に小さな赤ちゃんが生まれるのよ。生まれたら、ミーチャ、可愛がってあげてね」
「うん!僕ガリーナの赤ちゃん、可愛がってあげるよ。赤ちゃんの絵も描いてあげるし、ヴァイオリンも聴かせてあげる!」
「ありがとう」
「じゃあミーチャ、もっともっとヴァイオリン練習して、ガリーナの赤ちゃんが生まれるまでに上手になっておかなきゃね。…練習しておいで」
母親に背中を促かれたミーチャは、今まで描いていた絵を片付けると、今度は小さなヴァイオリンを取ってきて顎に挟み弾き始めた。
たどたどしいメロディが部屋に響き渡る。
「音楽も…いいわね」
「うちはね、元々の出会いが音楽学校…音楽だったから。音楽はやっぱり特別な想いがあるんだよね。アレクセイが教えている間はいいけど…。その先はミーチャの意思次第かな」
「そうなの。ねえ、あなたは…15でアレクセイと一緒に故郷を出て、そしてすぐに身籠ったと言ったわよね。知らない土地に来て、多分アレクセイもしょっ中留守にしているような環境で身籠って、出産するのは…不安じゃなかった?」
ガリーナの質問にユリウスは一瞬当時の追憶に馳せるかのような遠い目をした。
「不安もあったかもしれない…。でも私には当時姉同然の人がいて、留守がちなアレクセイに代わって彼女がずっと私のことを支えていてくれたから…。彼女が今の私を作ってくれたと言っても…過言じゃないと思う。それぐらい色々な事を教え授けてくれた…。あ、でもね、やっぱり若いって…怖いもの知らずなんだろうね!あの時は見事に未来しか…前しか見てなかったよ」
「ユリアったら…。まるで年寄りみたいな事言って…。まだ十分若いじゃない!その方は…今は?」
ガリーナの質問に、ユリウスは目を伏せ首を横に振った。
「そう…」
革命運動に関わる人間が絶縁する事は、そう珍しい事ではない。きっと彼女達にもそういった別れがあったのだろう とガリーナは理解した。
「ユリアは、二人目は考えていないの?」
「二人目も若いうちに産んでおきたい気持ちはあるけど…、今はアレクセイとミーチャと、家族三人の暮らしを大切にしたい。あの子ね…生まれてからずっと父親がいなくて、私が父親代わりに外で働いていたから、一番甘えたい時期に…母親に抱っこされたい時期に十分に甘えさせてあげられなかったんだよね。だから今はあの子に、その6年分も十分に甘えさせて、毎日時間が許す限り抱きしめて、キスして、そばにいてあげたいと思ってる」
ガリーナのその質問にユリウスは真剣な表情でヴァイオリンを弾いている愛息を愛おしげに見つめながら答えた。
「そう…。ミーチャは、幸せな子だね」
「違うよ。私がミーチャに幸せを貰ってるんだよ。あの子が私をムッター、ムッターと慕って甘えてくれる事は…私に無上の幸せをもたらしてくれる」
「素敵ね…」
「あなたも、もうすぐ…分かるよ」
ーあ!いけなーい‼︎もうこんな時間。夕ご飯の支度しなくちゃ!…ガリーナ、うちで作ったオカズ、持って帰りなよ!
ユリウスが置き時計の時間を見て慌ててエプロンを掛ける。
「ありがとう。じゃあお言葉に甘えて…。その代わり私も支度手伝うわ」
ガリーナがドレスの袖を捲り上げる。
「ツワリは大丈夫?無理はしないで」
妊娠初期のガリーナをユリウスが気遣う。
「下拵えぐらいなら大丈夫よ。何したらいい?」
「じゃあ…リンゴとジャガイモの皮、剥いてくれる?」
ー今日は塩漬豚をリンゴとソテーして、付け合せはマッシュポテトにするから…。多分リンゴの酸味がツワリでも食欲を促してくれるよ。
ユリウスが鍋を火に掛け、湯を沸かす。
「どれどれ…。じゃあここからはね…」
ユリウスとガリーナが先程から熱心に取り組んでいるのは、編み物だった。
春に知り合って以来、この二人は歳が近いという事もあり、また、ユリウスが家庭に入って主婦と母親業に専念する事になったのもあり、急速に親しくなり、今や殆ど毎日顔を合わす間柄となっていた。
ただ親しいのみならず、ユリウスは学校教育を受けていないガリーナに、フランス語や英語、そしてタイプライターなどを教える代わりに、ガリーナはユリウスに編み物や手芸を教えたり繕い物の賃仕事を紹介するなど、お互いの足りない部分を得意な部分で補い合う、とても理想的な友人関係を二人は築いていた。
「ユリアが編んでるのはミーチャのセーター?いい色ね」
「ふふ…。でしょ?私が編んでるのがミーチャのセーターだって知って、アレクセイが「俺のじゃないのかよ?」って…ご機嫌ナナメになっちゃった」
「あら、ごちそうさま」
「でも大人のサイズだと…毛糸も沢山必要だから…ね」
「そうね…。最近…前以上に物が手に入りにくくなったわね…」
「うん…」
重苦しい空気が部屋を支配する。
その空気を振り払うように、ユリウスがガリーナの手元を覗き込む。
「ガリーナは何編んでるの?こないだとは違うものだね」
ユリアの質問に、ガリーナはちょっとはにかんで、でも飛び切りの笑顔で答える。
「これ…ね。赤ちゃんの帽子。ユリア、私ね、赤ちゃんが出来たの」
ガリーナの告白に、ユリウスは一瞬驚きの表情を見せた後、ガリーナの手を両手でギュッと握りしめた。
その喜ばしい報告に、彼女の碧の瞳はうっすらと涙すら浮かべている。
「おめでとう!ガリーナ‼︎…いつ頃生まれるの?」
「お医者様の話では、9月頃だって…。ああ、ユリア。私、お母さんになるのよ。あなたに話したら…だんだん実感が湧いてきた」
ガリーナは自分の手を握りしめたユリウスの両手を命の宿った自分の腹部に持っていった。
母親たちの歓声を聞きつけた、ミーチャがお絵描きの手を止めやって来た。
「ガリーナのところに赤ちゃんが来るの?」
「そうだよ…、ミーチャ。ガリーナはお母さんになるんだよ」
「ミーチャ…ここにね、小さな赤ちゃんがいるのよ」
母親の説明に今いち分からない という顔をしていたミーチャの手を取ると、ガリーナはその手を自分の腹部に持って行った。
「ふうん…。ガリーナのところに来るのは、小鳥の赤ちゃん?ネコの赤ちゃん?…僕は熊の赤ちゃんがいいなぁ」
ミーチャの発言にユリウスとガリーナは思わず大きく見開いた目を見合わせ、吹き出した。
「ミーチャったら…。人間のお母さんのところには人間の赤ちゃんしか来ないのよ」
声を出して笑いながらガリーナが答えた。
「そうなの?だってガリーナのお腹小さいから小鳥の赤ちゃんが入ってるのかなあと思ったんだ」
二人に笑われたミーチャがちょっと口を尖らせて言った。
「あはは…。そうかあ…。でもミーチャ、ガリーナの所に小鳥の赤ちゃんが来たら、ガリーナ、空の飛び方を教えてあげられないでしょ?だから人間のお母さんには人間の赤ちゃん、小鳥のお母さんには小鳥の赤ちゃん、それからミーチャの好きな熊のお母さんには熊の赤ちゃんが来るんだよ」
という母親の説明に
「そっかあ…」
と納得したようにミーチャが頷いた。
「これからね、どんどんお腹が大きくなって、夏が終わる頃に小さな赤ちゃんが生まれるのよ。生まれたら、ミーチャ、可愛がってあげてね」
「うん!僕ガリーナの赤ちゃん、可愛がってあげるよ。赤ちゃんの絵も描いてあげるし、ヴァイオリンも聴かせてあげる!」
「ありがとう」
「じゃあミーチャ、もっともっとヴァイオリン練習して、ガリーナの赤ちゃんが生まれるまでに上手になっておかなきゃね。…練習しておいで」
母親に背中を促かれたミーチャは、今まで描いていた絵を片付けると、今度は小さなヴァイオリンを取ってきて顎に挟み弾き始めた。
たどたどしいメロディが部屋に響き渡る。
「音楽も…いいわね」
「うちはね、元々の出会いが音楽学校…音楽だったから。音楽はやっぱり特別な想いがあるんだよね。アレクセイが教えている間はいいけど…。その先はミーチャの意思次第かな」
「そうなの。ねえ、あなたは…15でアレクセイと一緒に故郷を出て、そしてすぐに身籠ったと言ったわよね。知らない土地に来て、多分アレクセイもしょっ中留守にしているような環境で身籠って、出産するのは…不安じゃなかった?」
ガリーナの質問にユリウスは一瞬当時の追憶に馳せるかのような遠い目をした。
「不安もあったかもしれない…。でも私には当時姉同然の人がいて、留守がちなアレクセイに代わって彼女がずっと私のことを支えていてくれたから…。彼女が今の私を作ってくれたと言っても…過言じゃないと思う。それぐらい色々な事を教え授けてくれた…。あ、でもね、やっぱり若いって…怖いもの知らずなんだろうね!あの時は見事に未来しか…前しか見てなかったよ」
「ユリアったら…。まるで年寄りみたいな事言って…。まだ十分若いじゃない!その方は…今は?」
ガリーナの質問に、ユリウスは目を伏せ首を横に振った。
「そう…」
革命運動に関わる人間が絶縁する事は、そう珍しい事ではない。きっと彼女達にもそういった別れがあったのだろう とガリーナは理解した。
「ユリアは、二人目は考えていないの?」
「二人目も若いうちに産んでおきたい気持ちはあるけど…、今はアレクセイとミーチャと、家族三人の暮らしを大切にしたい。あの子ね…生まれてからずっと父親がいなくて、私が父親代わりに外で働いていたから、一番甘えたい時期に…母親に抱っこされたい時期に十分に甘えさせてあげられなかったんだよね。だから今はあの子に、その6年分も十分に甘えさせて、毎日時間が許す限り抱きしめて、キスして、そばにいてあげたいと思ってる」
ガリーナのその質問にユリウスは真剣な表情でヴァイオリンを弾いている愛息を愛おしげに見つめながら答えた。
「そう…。ミーチャは、幸せな子だね」
「違うよ。私がミーチャに幸せを貰ってるんだよ。あの子が私をムッター、ムッターと慕って甘えてくれる事は…私に無上の幸せをもたらしてくれる」
「素敵ね…」
「あなたも、もうすぐ…分かるよ」
ーあ!いけなーい‼︎もうこんな時間。夕ご飯の支度しなくちゃ!…ガリーナ、うちで作ったオカズ、持って帰りなよ!
ユリウスが置き時計の時間を見て慌ててエプロンを掛ける。
「ありがとう。じゃあお言葉に甘えて…。その代わり私も支度手伝うわ」
ガリーナがドレスの袖を捲り上げる。
「ツワリは大丈夫?無理はしないで」
妊娠初期のガリーナをユリウスが気遣う。
「下拵えぐらいなら大丈夫よ。何したらいい?」
「じゃあ…リンゴとジャガイモの皮、剥いてくれる?」
ー今日は塩漬豚をリンゴとソテーして、付け合せはマッシュポテトにするから…。多分リンゴの酸味がツワリでも食欲を促してくれるよ。
ユリウスが鍋を火に掛け、湯を沸かす。
作品名:56 悪運 作家名:orangelatte