endlessにささやいて
「春歌」
何日振りだろうか。久々に二人きりの休日。
私達は、彼女の部屋のリビングで、穏やかな午後のひと時を過ごしていた。
テーブルには彼女の淹れてくれた紅茶のカップが二つ。
並んでソファに座っている恋人の名前を呼ぶと、彼女は素直に、その愛らしい笑顔を私に向けた。
「はい」
私はその顔を、無言のまま、じっと見つめる。
そんな私の態度を不思議に思った春歌は、何度か瞬きをして、それから困った様に私の名前を呼んだ。
「あ、あの…一ノ瀬さん?」
――ああ、やはり。
予想していた通りの彼女の反応に、私は深く溜息をついた。
すると春歌はそれを悪い方向に受け取ったらしく、小さくなって、
「すみません、私、気づかないうちに何か…?」
「いいえ。そんな事はありません」
「あ、もしかして紅茶、お口に合いませんでした?」
「そう言う事ではないので、安心して下さい。ただ…どうしてなのかと思って」
「何がですか?」
「以前は、名前で呼んでくれていたでしょう?」
「っ!」
私が言うと、春歌の顔がみるみるうちに赤くなる。
トキヤくん、と。
学園祭の日、駆け付けた講堂のステージで、初めて名前を呼ばれたあの時の胸の高鳴りは、今でも鮮明に覚えている。私がHAYATOである事を打ち明けた時でもあり、彼女への恋心をはっきりと自覚した時でもある。
「その後はいろいろありましたが、今は晴れて恋人同士となれたわけですから、呼び方を戻してくれても良いのではないですか?」
「え、あの…でも」
少なからず困惑する春歌に、私はもとより気に掛けていた事を訊ねた。
「それとも君は…まだ、気にしているのでしょうか。あのクリスマスの夜の事を」
「え」
それから2か月後の、クリスマス。学園で行われたダンスパーティーの後に、春歌から想いを告げられた私は、それを受け止める事ができず、パートナーを解消しようと言った。
恋愛禁止令――破れば退学と言う罰則を恐れ、私は彼女を拒絶した。簡単に忘れてしまえる事ではない。私は彼女を想っていながら、深く傷つけてしまった。
その日を境に、私達はただのパートナーに戻ろうとして、距離を置き、呼び方も変えた。下の名前から姓へ戻して。その事が彼女の中でわだかまりになっていたとしても、決して筋違いな事ではなかった。
しかし春歌は、首を大きく振って否定した。
「いえっ! あれは仕方のない事というか、私の事まで真剣に考えて下さってのことでしたし、今はこうして一緒に居られるので、十分すぎるくらい幸せです!」
力強い言葉に、内心不安だった私は安堵の息を吐く。そして自然に顔が綻んでいくのが自分でも分かった。
「…可愛い事を言ってくれますね。でも、それならば何故? 恥ずかしがり屋な君の性格は知っていますが、一度は呼んでくれていたのですから、そう難しくないのでは?」
「う…それは…」
春歌は、顔を赤らめてうつむいた。
恋人同士だから名前で呼び合うべきなどと、固定観念を彼女に押し付けるつもりはないけれど、一度その響きの心地良さを知ってしまったが故に、どうしても欲が出てしまう。
「あの頃はまだ、学生で同じクラスだったので、今より一ノ瀬さんを身近に感じられたというか…」
「今は違うのですか?」
「ええと、今は…一ノ瀬さんがアイドルとしても男性としても日に日に素敵になっていかれるので、また以前とは違う緊張があると言いますか…恋人同士とは言え、やっぱり憧れる部分も多くて、その…」
言いたい事がまとまらないのか、次第に小声になっていく。とは言え、それだけでも答えとしては十分だった。
私は小さく息を吐いて、
「まったく、君と言う人は…」
「一ノ瀬さん?」
「一体、どれだけ私をときめかせれば気が済むのですか?」
「! べ、別に、そんなつもりでは…」
「本当に、罪深い人ですね」
もちろん彼女が計算でそんな事をできる訳がない。しかし耳まで赤く染まっている彼女はとても可愛らしくて、その一挙一動に私の感情は揺さぶられてしまう。
「そういえば君は、HAYATOの事を、様付けで呼んでいましたね」
ふと思って彼の――私が演じていたアイドルの名前を出すと、
「は、はいっ! HAYATO様は私の青春なのでっ!」
春歌は勢いよく顔を上げ、これまで何度となく聞いた言葉を口にした。以前はそんな彼女の様子を、煩わしく、不愉快にさえ感じていたものの、彼の事を受け入れられた今では、微笑ましいと思える様になっていた。
「HAYATOの頃にもいろんな方から声援を受けたり、手紙を頂いたりしましたが、彼の事を様付けで呼ぶのは君くらいのものですよ」
「それはそうかもしれませんが、私にとっては憧れで、特別な存在なので、呼び捨てなんてとてもっ!」
「なるほど。君にそう言われると悪い気はしませんが…ただ、随分と遠慮し過ぎではないですか?」
憧れ――確かに、響きは悪くない。大切に想ってくれている事も解る。
しかし普通、憧れと言うのは本来、自分と遠く離れた存在に対して抱く感情のはず。
「前から言っていますが、君は自分の価値をもっと理解して下さい。私にとっても君は特別で、唯一無二のパートナーなのですから」
「一ノ瀬さん…」
春歌の瞳が小さく揺れる。私は指で彼女の柔らかい髪に触れながら、微笑みかける。
「HAYATOの事はともかく、私の事は、もっと近くに感じて頂かなくては」
そう言うと私は春歌の小さな体を抱き寄せ、胸の中に納めると、前髪にそっとキスをした。
「あ、あのっ! 一ノ瀬さんっ!?」
「違うでしょう、春歌」
戸惑う彼女の頬に触れると、今度はその反対側の頬に口づける。
「君が名前で呼んでくれるまでは止めませんし、離しませんよ」
私はゆっくりと、彼女の耳元、首筋、それから肩へと、キスを落としていく。
「…くっ、くすぐったい、ですっ」
「君の弱いところは知っていますからね。早く降参した方が良いのでは?」
そのまま背中から腰へと指を滑らせると、春歌は大きく身じろぎする。
「一ノ瀬さ…んっ」
「なかなか強情ですね。…言う事をきいてくれないのは、この唇ですか?」
言いながら私は親指で春歌の唇に触れ、顔を上げさせると、息がかかる程の距離に顔を近づけて、その瞳を覗き込む。
「あ…」
「春歌」
甘い声で囁くと春歌は私の服を掴んで、
「トキヤくん…」
「よく、できましたね」
私は彼女に微笑むと、そのまま唇を重ねた。
「っ。あの…?」
「生憎ですが、呼んだら止めるとは一言も言っていませんよ」
「そっ、そんな」
我ながら屁理屈だと思うけれども、最愛の恋人を腕の中に抱きしめたまま、冷静でいられるわけもなく。
「いけませんか?」
白い肌を指でなぞると、触れたところから彼女の熱が伝わってくる。
「ずるい、です…」
「そうかもしれませんね。けれど、もともと今日はこんな風に君と触れ合いたかったので」
恐らく何かのきっかけで、あるいは理由をこじ付けて、こうやって君を抱きしめていたに違いない。
「ほら、こんなに胸が高鳴っているでしょう?」
私は春歌の手を自分の胸に引き寄せて触れさせる。大きく脈打つ鼓動が、重ねた手に伝わっていくのを感じる。
何日振りだろうか。久々に二人きりの休日。
私達は、彼女の部屋のリビングで、穏やかな午後のひと時を過ごしていた。
テーブルには彼女の淹れてくれた紅茶のカップが二つ。
並んでソファに座っている恋人の名前を呼ぶと、彼女は素直に、その愛らしい笑顔を私に向けた。
「はい」
私はその顔を、無言のまま、じっと見つめる。
そんな私の態度を不思議に思った春歌は、何度か瞬きをして、それから困った様に私の名前を呼んだ。
「あ、あの…一ノ瀬さん?」
――ああ、やはり。
予想していた通りの彼女の反応に、私は深く溜息をついた。
すると春歌はそれを悪い方向に受け取ったらしく、小さくなって、
「すみません、私、気づかないうちに何か…?」
「いいえ。そんな事はありません」
「あ、もしかして紅茶、お口に合いませんでした?」
「そう言う事ではないので、安心して下さい。ただ…どうしてなのかと思って」
「何がですか?」
「以前は、名前で呼んでくれていたでしょう?」
「っ!」
私が言うと、春歌の顔がみるみるうちに赤くなる。
トキヤくん、と。
学園祭の日、駆け付けた講堂のステージで、初めて名前を呼ばれたあの時の胸の高鳴りは、今でも鮮明に覚えている。私がHAYATOである事を打ち明けた時でもあり、彼女への恋心をはっきりと自覚した時でもある。
「その後はいろいろありましたが、今は晴れて恋人同士となれたわけですから、呼び方を戻してくれても良いのではないですか?」
「え、あの…でも」
少なからず困惑する春歌に、私はもとより気に掛けていた事を訊ねた。
「それとも君は…まだ、気にしているのでしょうか。あのクリスマスの夜の事を」
「え」
それから2か月後の、クリスマス。学園で行われたダンスパーティーの後に、春歌から想いを告げられた私は、それを受け止める事ができず、パートナーを解消しようと言った。
恋愛禁止令――破れば退学と言う罰則を恐れ、私は彼女を拒絶した。簡単に忘れてしまえる事ではない。私は彼女を想っていながら、深く傷つけてしまった。
その日を境に、私達はただのパートナーに戻ろうとして、距離を置き、呼び方も変えた。下の名前から姓へ戻して。その事が彼女の中でわだかまりになっていたとしても、決して筋違いな事ではなかった。
しかし春歌は、首を大きく振って否定した。
「いえっ! あれは仕方のない事というか、私の事まで真剣に考えて下さってのことでしたし、今はこうして一緒に居られるので、十分すぎるくらい幸せです!」
力強い言葉に、内心不安だった私は安堵の息を吐く。そして自然に顔が綻んでいくのが自分でも分かった。
「…可愛い事を言ってくれますね。でも、それならば何故? 恥ずかしがり屋な君の性格は知っていますが、一度は呼んでくれていたのですから、そう難しくないのでは?」
「う…それは…」
春歌は、顔を赤らめてうつむいた。
恋人同士だから名前で呼び合うべきなどと、固定観念を彼女に押し付けるつもりはないけれど、一度その響きの心地良さを知ってしまったが故に、どうしても欲が出てしまう。
「あの頃はまだ、学生で同じクラスだったので、今より一ノ瀬さんを身近に感じられたというか…」
「今は違うのですか?」
「ええと、今は…一ノ瀬さんがアイドルとしても男性としても日に日に素敵になっていかれるので、また以前とは違う緊張があると言いますか…恋人同士とは言え、やっぱり憧れる部分も多くて、その…」
言いたい事がまとまらないのか、次第に小声になっていく。とは言え、それだけでも答えとしては十分だった。
私は小さく息を吐いて、
「まったく、君と言う人は…」
「一ノ瀬さん?」
「一体、どれだけ私をときめかせれば気が済むのですか?」
「! べ、別に、そんなつもりでは…」
「本当に、罪深い人ですね」
もちろん彼女が計算でそんな事をできる訳がない。しかし耳まで赤く染まっている彼女はとても可愛らしくて、その一挙一動に私の感情は揺さぶられてしまう。
「そういえば君は、HAYATOの事を、様付けで呼んでいましたね」
ふと思って彼の――私が演じていたアイドルの名前を出すと、
「は、はいっ! HAYATO様は私の青春なのでっ!」
春歌は勢いよく顔を上げ、これまで何度となく聞いた言葉を口にした。以前はそんな彼女の様子を、煩わしく、不愉快にさえ感じていたものの、彼の事を受け入れられた今では、微笑ましいと思える様になっていた。
「HAYATOの頃にもいろんな方から声援を受けたり、手紙を頂いたりしましたが、彼の事を様付けで呼ぶのは君くらいのものですよ」
「それはそうかもしれませんが、私にとっては憧れで、特別な存在なので、呼び捨てなんてとてもっ!」
「なるほど。君にそう言われると悪い気はしませんが…ただ、随分と遠慮し過ぎではないですか?」
憧れ――確かに、響きは悪くない。大切に想ってくれている事も解る。
しかし普通、憧れと言うのは本来、自分と遠く離れた存在に対して抱く感情のはず。
「前から言っていますが、君は自分の価値をもっと理解して下さい。私にとっても君は特別で、唯一無二のパートナーなのですから」
「一ノ瀬さん…」
春歌の瞳が小さく揺れる。私は指で彼女の柔らかい髪に触れながら、微笑みかける。
「HAYATOの事はともかく、私の事は、もっと近くに感じて頂かなくては」
そう言うと私は春歌の小さな体を抱き寄せ、胸の中に納めると、前髪にそっとキスをした。
「あ、あのっ! 一ノ瀬さんっ!?」
「違うでしょう、春歌」
戸惑う彼女の頬に触れると、今度はその反対側の頬に口づける。
「君が名前で呼んでくれるまでは止めませんし、離しませんよ」
私はゆっくりと、彼女の耳元、首筋、それから肩へと、キスを落としていく。
「…くっ、くすぐったい、ですっ」
「君の弱いところは知っていますからね。早く降参した方が良いのでは?」
そのまま背中から腰へと指を滑らせると、春歌は大きく身じろぎする。
「一ノ瀬さ…んっ」
「なかなか強情ですね。…言う事をきいてくれないのは、この唇ですか?」
言いながら私は親指で春歌の唇に触れ、顔を上げさせると、息がかかる程の距離に顔を近づけて、その瞳を覗き込む。
「あ…」
「春歌」
甘い声で囁くと春歌は私の服を掴んで、
「トキヤくん…」
「よく、できましたね」
私は彼女に微笑むと、そのまま唇を重ねた。
「っ。あの…?」
「生憎ですが、呼んだら止めるとは一言も言っていませんよ」
「そっ、そんな」
我ながら屁理屈だと思うけれども、最愛の恋人を腕の中に抱きしめたまま、冷静でいられるわけもなく。
「いけませんか?」
白い肌を指でなぞると、触れたところから彼女の熱が伝わってくる。
「ずるい、です…」
「そうかもしれませんね。けれど、もともと今日はこんな風に君と触れ合いたかったので」
恐らく何かのきっかけで、あるいは理由をこじ付けて、こうやって君を抱きしめていたに違いない。
「ほら、こんなに胸が高鳴っているでしょう?」
私は春歌の手を自分の胸に引き寄せて触れさせる。大きく脈打つ鼓動が、重ねた手に伝わっていくのを感じる。
作品名:endlessにささやいて 作家名:透野サツキ