57 ミハイルの最期
アレクセイがアパートに戻って来た。
暗い顔で帰って来るなり、長椅子にドサッと身体を投げ出すように座り込み、頭を抱えている。
アレクセイの脱獄に献身的な協力をしてくれたアナスタシア・クリコフスカヤ嬢が旅先のウィーンで逮捕され、ロシアへ強制送還されて早一か月。
シベリア流刑が下された彼女のために早急に奪還計画が立てられ、選りすぐりのメンバーが彼女の身柄の奪還に臨んだが、それは―思わぬ事態から失敗に終わった。
メンバーの一人で、かつて多くの同志の奪還・脱獄を成功させていた、荒事のスペシャリストのミハイル・カルナコフが、事もあろうに元潜入していた憲兵隊の隊長夫人と密通していた挙句そこから計画が漏れたのだった。そればかりか、その時にアジトまでもが検挙されてその結果、大勢の同志が逮捕され、アジトをも失い、ボリシェビキは大きな痛手を受けた。ミハイルはそのまま密通相手の憲兵隊長夫人と逃走。数日後、フィンランドの国境付近で二人とも遺体で発見されたのだった。
その憲兵隊長夫人というのは―、アナスタシアの実の姉だった。
多くの党員と、筋金入りの党員だったミハイルの裏切りで、ボリシェビキが失ったものはあまりにも大きかった。
アレクセイにとっても今回奪還に失敗したクリコフスカヤ嬢は幼馴染で、ミハイルに至っては少年時代からの長年の友情で結ばれた最も古い盟友だった。
― お前にこんなことを教えるのは酷かもしれないが…、アナスタシアは幼い頃から…ずっとずっとアレクセイに片思いしてたんだよ。アナスタシアがこんな危険な橋を渡ってまでやつの脱獄に協力したのは…アレクセイへの想いゆえだったんだ。お前も噂は耳に入ってると思うから、根も葉もない噂に心を乱されるよりは、こうして俺がきちんと事実を知らせた方がいいと思って…。余計なお節介だったら済まないな…。
アナスタシアの夫アレクセイへの想いは、彼女が逮捕された時に、アレクセイともアナスタシアとも付き合いの長い、貴族出身の同志がユリアに話してくれた。
― アレクセイにぼくら妻子がいるのを知っていて…知っていたうえでそれでも恋心ゆえに危険な橋を渡ったアナスタシア・・・・。一体彼女はどういう思いでこの脱獄計画に協力してくれていたのだろう。彼女は…ぼくたち…いや、ぼくの事をどう思っていたんだろう。
ユリウス自身とてアレクセイがシベリアに送られている6年間、戻って来るかもわからない夫をひたすら待って異国の地で必死に働きながら子供を育て、彼の帰って来る場所を死守していた自負は十分持っていた。人もそんな自分を、「これぞボリシェビキ闘士の妻の手本」「若いのに見上げた生き方だ」と褒めてくれもする。― しかし、自分とアレクセイは夫婦で確固とした心の繋がりがあったから、加えてミーチャという揺るぎない愛の結晶があったからこそ、そのいつ来るか分からない夫の帰還の日を耐えて待つことが出来たのもまた事実だ。
それに引き換え、アナスタシアが持っていたのは、彼女が唯一心のよりどころとしたのは― 長年自分が温めて来たアレクセイへの恋心―、ただそれだけだった。
それだけを頼みに自身の全てを懸けて彼を救おうとしたアナスタシア。
― 貴女はその先に…自分の人生に何の光明を見い出していたの?…自らの身はシベリアへ送られても…、あなたはそれでも満足しているの?
未だ見ぬアナスタシアという女性に思いを馳せずにはいられないユリウスだった。
暗い顔で帰って来るなり、長椅子にドサッと身体を投げ出すように座り込み、頭を抱えている。
アレクセイの脱獄に献身的な協力をしてくれたアナスタシア・クリコフスカヤ嬢が旅先のウィーンで逮捕され、ロシアへ強制送還されて早一か月。
シベリア流刑が下された彼女のために早急に奪還計画が立てられ、選りすぐりのメンバーが彼女の身柄の奪還に臨んだが、それは―思わぬ事態から失敗に終わった。
メンバーの一人で、かつて多くの同志の奪還・脱獄を成功させていた、荒事のスペシャリストのミハイル・カルナコフが、事もあろうに元潜入していた憲兵隊の隊長夫人と密通していた挙句そこから計画が漏れたのだった。そればかりか、その時にアジトまでもが検挙されてその結果、大勢の同志が逮捕され、アジトをも失い、ボリシェビキは大きな痛手を受けた。ミハイルはそのまま密通相手の憲兵隊長夫人と逃走。数日後、フィンランドの国境付近で二人とも遺体で発見されたのだった。
その憲兵隊長夫人というのは―、アナスタシアの実の姉だった。
多くの党員と、筋金入りの党員だったミハイルの裏切りで、ボリシェビキが失ったものはあまりにも大きかった。
アレクセイにとっても今回奪還に失敗したクリコフスカヤ嬢は幼馴染で、ミハイルに至っては少年時代からの長年の友情で結ばれた最も古い盟友だった。
― お前にこんなことを教えるのは酷かもしれないが…、アナスタシアは幼い頃から…ずっとずっとアレクセイに片思いしてたんだよ。アナスタシアがこんな危険な橋を渡ってまでやつの脱獄に協力したのは…アレクセイへの想いゆえだったんだ。お前も噂は耳に入ってると思うから、根も葉もない噂に心を乱されるよりは、こうして俺がきちんと事実を知らせた方がいいと思って…。余計なお節介だったら済まないな…。
アナスタシアの夫アレクセイへの想いは、彼女が逮捕された時に、アレクセイともアナスタシアとも付き合いの長い、貴族出身の同志がユリアに話してくれた。
― アレクセイにぼくら妻子がいるのを知っていて…知っていたうえでそれでも恋心ゆえに危険な橋を渡ったアナスタシア・・・・。一体彼女はどういう思いでこの脱獄計画に協力してくれていたのだろう。彼女は…ぼくたち…いや、ぼくの事をどう思っていたんだろう。
ユリウス自身とてアレクセイがシベリアに送られている6年間、戻って来るかもわからない夫をひたすら待って異国の地で必死に働きながら子供を育て、彼の帰って来る場所を死守していた自負は十分持っていた。人もそんな自分を、「これぞボリシェビキ闘士の妻の手本」「若いのに見上げた生き方だ」と褒めてくれもする。― しかし、自分とアレクセイは夫婦で確固とした心の繋がりがあったから、加えてミーチャという揺るぎない愛の結晶があったからこそ、そのいつ来るか分からない夫の帰還の日を耐えて待つことが出来たのもまた事実だ。
それに引き換え、アナスタシアが持っていたのは、彼女が唯一心のよりどころとしたのは― 長年自分が温めて来たアレクセイへの恋心―、ただそれだけだった。
それだけを頼みに自身の全てを懸けて彼を救おうとしたアナスタシア。
― 貴女はその先に…自分の人生に何の光明を見い出していたの?…自らの身はシベリアへ送られても…、あなたはそれでも満足しているの?
未だ見ぬアナスタシアという女性に思いを馳せずにはいられないユリウスだった。
作品名:57 ミハイルの最期 作家名:orangelatte