59 1917年早春の試練
買い出しからの帰り道。
凍った道を転倒しないように細心の注意を払って歩くユリウスの身体が、ますます重たく力が入らなくなっていく。平衡感覚も失われ、足を踏みしめて歩いているのにどこか雲の上でも歩いているように足元がおぼつかない。
そのうちまるで大音響で弾いているグランドピアノの中に放り込まれたような、ガンガンとした耳鳴りと頭痛が襲って来た。
全身から冷たい汗が流れ出て止まらないのに、寒くて震えも止まらない。
― アレ…クセイ。たすけて…
最後に夫に向かってかすれた声で微かに助けを求め、そこでユリウスの意識はこと切れた。彼女は雪の残るペテルスブルグの街角に倒れた。
セルゲイ・ロストフスキー大尉は、ユスーポフ候への報告のため急ぎ足で市街を歩いていた。
ふとその時に、路上に倒れている人影が目の端に入って来る。
帽子とコートから零れている金色の髪。
― まさか!
駆け寄ると、やはり、それは10年前に一時ユスーポフ邸で保護していたあの金の髪の娘だった。
といっても今の彼女はもう娘ではなく、立派な大人の女性へと成長していたが。
「ユリア様?どうされました?」
抱き上げて呼びかけるが、意識が混濁しており返事がない。
以前から細身ではあったが、抱きかかえた腕の中の彼女は驚くほど軽い。顔色は紙のように白く、荒い息をしていた。
― ユスーポフ邸に運ぶか…。いや、ダメだ。
一瞬躊躇したのち、ロストフスキーはユリウスを彼女のアパートへと運ぶことにした。
彼女を抱き抱えてロストフスキーはそこから数分の彼女のアパートへと運んだ。部屋の前まで来ると「ちょっと、すみませんよ」と意識のない彼女に一応断り、持っていた鞄の中を探る。中にはほとんど何も入っておらず鍵はすぐに見つかった。
鍵を開けて室内へ入る。
綺麗に整理された室内の奥に二つの部屋があった。
ドアを開けると一つはどうやら子供部屋だったようだ。こじんまりとした机とベッドが置かれていた。
―こちらか…。
ロストフスキーはもう一つの部屋のドアを開けた。
二つ目のこちらの部屋がどうやら夫婦の寝室だったようだ。先ほどの部屋のものより少し大きめのベッドに枕が二つ並べて置かれている。
取り敢えずユリウスのコートを脱がせ、傍らのチェストを探ってリネンを取り出し濡れた身体を拭き、彼女をベッドに寝かせ、暖炉に火を起こす。
部屋は幾分か暖まって来たものの、相変わらずユリウスの意識は混濁しており、ロストフスキーの呼び掛けには答えられない。荒い呼吸に薄い胸が上下している。
― まずいな。これは…恐らく肺炎を起こしかけている…。さて、どうしたらいいものやら。
ロストフスキーがベッドの傍らで彼女の容態を懸念していると、
「ただいま~」
と玄関から子供の声がして、足音が近づいて来た。
「母さん?帰ってるの?―!? あなたはどなたですか?」
両親のベッドルームのドアが少し開いているのを訝しんだ、学び舎帰りのミーチャがやって来た。
そこで寝具に包まれ苦しんでいる母親と、その傍らの見知らぬ男性を見て、ミーチャは悲鳴のようなひきつった声を上げる。
「あ…、ここの坊やかい?私は君の母さんの古い知り合いで…、さっきお母さんが道端で倒れていたのを発見して…、不躾だけど勝手に運ばせてもらったんだ…」
ロストフスキーの説明に、ミーチャの顔は蒼ざめて、ベッドの母親の元へ駆け寄る。
「母さん!…母さん?!」
苦しむ母親の肩を揺すって呼びかけるミーチャに
「坊や、お父さんは?遅いのかい?お母さんをこのままにしておくと危険だ…。早く医者に見せた方がいい」
― 悪いが私は急いでいるので失礼するが、あとは君ひとりで大丈夫かな?
ロストフスキーの問いにミーチャは涙を浮かべながらも、
「母を送り届けて下さってありがとうございました」
とロストフスキーに深々と頭を下げた。
― あの…。古いお知り合いと伺いましたが、僕名前を存じ上げなくて…。お名前を…。
ミーチャに名前を聞かれたロストフスキーは慌てて、
「いや…いいんだ。お母さんお大事にな」
と言い残すと、「あ、待って下さい」と引き留めるミーチャの声を背中に聞きながらそそくさとミハイロフ家を後にした。
後に残されたミーチャは、全身に汗をかき苦しそうな息で臥せっている母親の額の汗をぬぐい、水で濡らしたリネンを乗せる。しかしリネンは高熱でアッとい間に温まっていく。
― どうしよう…。
ミーチャは同じアパート内に住んでいる大家に助けを求めに行った。
「おばさん、おばさん。助けて、母さんが―、ムッターがすごい熱なんです!」
駆け込んできたミーチャに大家が大慌てでミハイロフ家を訪れる。
「ユリちゃん、ユリちゃん!―返事しとくれ?私の声が聞こえるかい?」
しかし大家の呼びかけにもユリウスは反応せず、荒い呼吸を繰り返している。
「ミーチャ、すぐにお父さんを呼んでおいで。お父さんの仕事場は分かるかい?泣くんじゃないよ!男の子だろ?…急いでお父さんを呼び戻しておいで」
そう言って大家はミーチャの頬に両手を当てると親指で涙を拭ってやり、背中を押してミーチャを送り出した。
ややあって、ミーチャに連れられたアレクセイが泡を食ったような顔でアパートへ戻って来た。
「ユリウス!ユリウス!!おい、返事をしろ」
「こんなところに来てくれる医者がいるとは思えないけど…。うちにある解熱剤を取って来ようかね?運が良ければ効くと思うけど…」
という大家の申し出に、
「いえ…。ありがとうございます。ご心配おかけしました」
とアレクセイは付き添っていてくれた大家に頭を下げた。
― じゃあ、私は帰るよ。
ベッドに伏せるユリウスを不安そうに振り返り振り返り、大家は自分の部屋へと戻って行った。
ベッドで苦しむユリウスの傍らで暫し頭を抱えていたアレクセイは、思いついたようにユリウスを寝具に包んだまま抱き上げた。
「ミーチャ、ちょっと出て来る。…一人で留守番できるな?」
母親を抱えた父親の姿に、ミーチャは泣きべそをかきながら縋りつく。
「どこ行くの?ムッターをどこへ連れて行くの?」
「大丈夫だ。…心配するな。必ずムッターを助けるから…。いいな、鍵をかけて留守番してるんだ。…出来るな?」
父親の有無を言わさぬ強い視線に、ミーチャが思わず無言でうなずいた。
「よし!いい子だ。遅くなったら先に寝てるんだぞ」
アレクセイは息子の頭をポンポンと撫でると、部屋を後にした。
ユリウスを抱えたアレクセイは通りへ出ると辻馬車をつかまえた。
「ゴロハヴァーヤ通りのミハイロフ邸まで頼む!」
作品名:59 1917年早春の試練 作家名:orangelatte