61 ガリーナの弟
「ただいま…」
珍しくガリーナの夫フョードル・ズボフスキーが夕方日の暮れる前に帰宅した。
「おかえりなさい。フョードルさん」
ちょうど学び舎から戻って来ていたミーチャがズボフスキーを迎えた。
「おお、ミーチャ。ただいま。…ガリーナは?」
「エレーナを連れて外出しています。フョードルさんが帰ってきたらこれを渡すように頼まれました」
そう言ってミーチャは、綺麗に畳まれリネンで包まれたフョードルの着替えを手渡した。
「ああ、ありがとう…またこれから戻んなくてはならないんだ」
ミーチャは手早くお茶を淹れてズボフスキーに出す。
「どうぞ」
「ありがとう。いただくよ」
フョードルはダイニングテーブルにつき、湯気の上がるカップを取った。
お茶を啜る目の前のフョードルの穏やかそうな面差しを見て、ミーチャは常より気になっていた、あの「オレグ」について聞いてみようと思った。
「あの…フョードルさん…」
「なんだい?」
「あの…、オレグって誰でしょう?よくガリーナが僕のことを「オレグ」と呼ぶことがあって…」
ミーチャに投げかけられた質問にフョードルは一瞬その優しい榛色の瞳に切なげな色を浮かべたが、すぐにいつもの思慮深い穏やかな顔に戻り、ミーチャの疑問に答えてくれた。
「あぁ。君を…オレグ…と呼んでいたか。オレグは…ガリーナの上の弟だよ。あいつはご存知の通り、ユダヤ人でな。もう10年以上も前…君が生まれた頃かな…、頻発していたポグロムで母親と幼い弟たちを虐殺されて失ってるんだ…」
ああ…。その話はミーチャもおぼろげながら記憶していた。まだ自分が小さかった頃に、初めてこの夫妻がうちへ遊びに来たときに話していたガリーナの家族の話―。
「そのオレグはな、一家の大黒柱だったガリーナをよく助けて手伝ってくれる、ミーチャみたいな明るくて優しい気質の子だったそうだ。…そういえば君がうちに来てから、ガリーナよく言ってたな。「ミーチャはとても親切で私の事をよく気遣ってくれる。…あの子を見ていると亡くなった上の弟を思い出す」って」
いつも優しく明るいガリーナ。くるくると働いてエレーナの優しいマーマで、ミーチャにもまるで母のように姉のように接してくれるガリーナ。
そのガリーナの未だに癒えない心の傷に、ミーチャは何ともやるせない気持ちになる。
「そんな顔するな…。もうそんな悲しい事が起こらないように…今俺たちが―俺や君のお父さんが頑張ってるんだ。…君の事をガリーナがつい「オレグ」と呼んでしまうのは、実はそういう訳なんだ。だから…ガリーナがつい間違えてそう呼んでしまっても…勘弁してもらえるかな?」
ガリーナの悲しみに同調して思わず俯いたミーチャに、ズボフスキーがことさら明るい口調で言葉を継いだ。
「うん。…ありがとう。フョードルさん…話してくれて」
「いいや。君が優しい子だから…。ぼくも君に話しておこうと思ったんだ。君ならばガリーナの気持ちを理解してくれると思ったから…。しんみりした話になっちゃったな。…じゃあ、僕はまた出るから…」
そう言ってフョードル・ズボフスキーはミーチャの頭をクシャクシャと撫でると、渡された着替えを持ってまた事務所へと戻って行った。
作品名:61 ガリーナの弟 作家名:orangelatte