眠れない夜であるのなら
帝国図書館の食堂は、食事時以外にも休憩や時間を潰す目的の文豪が常に数人たむろしている。昼の混雑のピークも過ぎ、まばらに席が埋まった静かな食堂で、午前の潜書帰りの織田は一人遅めの昼食を取っていた。
潜書の後軽く補修が必要だったので、残っているか心配だった好物のカレーにもありつき、運が良いとほくほく機嫌良く口に運んでいると目の前に人影が立った。
「よお」
皿から目を移すと、見慣れた真っ赤な髪、そして同じく赤い派手な羽織の青年が立っていた。
「なんや太宰クンも今からか」
「いや俺はコーヒー飲みに来たんだけど」
ここいいかと太宰は織田の向かいに座った。
「うわあ、お前またそれ。飽きない?」
食べている途中の手元を見て、顔をしかめられた。
「何で。別にええやろ。美味いやんけカレー」
「味の話じゃなくて頻度がおかしい。最近お前からカレー臭がする」
「せんわ!口入るもん全部にあの粉かけとる太宰クンに言われとうないんですけど~」
気の置けない友人同士であるから、相手を腐すようなのもいつも通りのやり取りである。
その後もどうでもいいようなことを話しながら食事を終えて、一息つき何となく会話も途切れたところで、織田は少し前から友人と顔を合わせたなら言おうと考えていたことを切り出した。
「ところで太宰クンなぁ、まーた森先生に怒られとったやろ」
先日廊下で見た光景である。睡眠薬の処方についてまたぞろ森を捕まえてしつこくしたらしく、いい加減にしろと叱られていた。
「……眠れへんの」
太宰は織田の言葉に一瞬目を瞠って、それから決まり悪そうに俯いた。
充血している目とその下にうっすら見える隈が見えて、明らかに睡眠時間が足りていないようだ。
「ワシに出来ることなんてそんなないけど、悩んどることがあるなら話くらいは聞くで~?」
ワザとおどけた軽い調子で笑ってみせる。
「太宰クンはため込み過ぎる性格やからな!いっぱいいっぱいになる前に吐き出しとき」
「うん……ありがとな、オダサク」
俯いたままで太宰も笑って、コーヒーカップの縁を指でいじっていたが、やがて深刻な顔付きでぽつりと口を開いた。
「実は俺、ある人のことを考えると夜も眠れない」
「さて!午後も頑張りまっか!」
「おい何片付け始めてんの」
太宰が低い声で唸る。
「いや~その後に続く話は大体もう分かっとるからええかなって」
「良くねーよ!つーかまだ何も言ってない!」
いやいや太宰が思い煩って眠れない相手など、考えるまでもなく一人しかいないだろう。
心の中で突っ込みつつ、それでも一応は聞く。
「で、芥川先生が何やて?何かあったんか」
この図書館で自分達と同じく侵蝕者と戦う者の内の一人である芥川龍之介は、友人の太宰治が生前から私淑というレベルを越えて非常な憧れを抱いている作家である。
今生その憧れの人物との出会いは果たされたわけなのだが、友人の性格からして毎日部屋に押しかけるとか、しつこく手紙を出しまくるとか、それくらいの猛烈なアピールに出るものと思いきや。
「あっ、スマン。緊張して全っ然話されへん言うてたもんなー、何もある訳ないか」
太宰は芥川を尊敬するあまりに全く彼と喋れないのだった。
同じく尊敬する永井やかつて師事し少々のわだかまりが残る佐藤に対してだって普通に自ら話しかけるのに、芥川のこととなると基本的に遠くからこっそりと見つめるだけだった。
可哀そうなものを見る目に、太宰がムッと言い返す。
「何言ってんだよ。進展したよ」
「へ?おおっ!?そうなんや」
「三日連続で自分から声をかけて挨拶した」
アホらしと再び席を立とうとした織田の服を、太宰が身を乗り出して引っ掴んだ。
「待って。待ってちょっと俺の話聞いて」
「いややー。だって絶対長くなるやろ…」
「お前今さっき聞いてやるって言ったばっかだろ!聞けよ!聞いてくれないと俺死んじゃう!」
なあなあお願いと服を引っ張る手からはうんと言うまで離す気がない強固な意志を感じ、あきらめて織田は腰を下ろした。
「先生を思うだけで胸が苦しくて。一体この気持ちをどうしたらいいのか」
「あ~はいはい」
「ほんと俺は夜も眠れないんだ」
「さよかー」
正直すでに何度も聞いている内容なので、相槌もやる気がなくなるが、太宰は気にせず喋り続けている。
「なあ、どうしたらもっと芥川先生とお近づきになれると思う!?」
「そんなんフツーに話しかけたらええんとちゃうの」
ごく真っ当に返すと、太宰は肘をついて両手で頭を抱えた。
「最早普通が何だったかさえ分からない……」
「そこはもっと気楽にやな」
「無理。実際会ったらもう本人全然カッコイイ。なんかもう全部が尊い。尊すぎて無理。それに、だって……あんなにきれいな人だなんて」
……太宰は小説家としての尊敬を越え芥川を恋しているのだ。本人の弁によると、図書館にやって来たその日から。
潜書の後軽く補修が必要だったので、残っているか心配だった好物のカレーにもありつき、運が良いとほくほく機嫌良く口に運んでいると目の前に人影が立った。
「よお」
皿から目を移すと、見慣れた真っ赤な髪、そして同じく赤い派手な羽織の青年が立っていた。
「なんや太宰クンも今からか」
「いや俺はコーヒー飲みに来たんだけど」
ここいいかと太宰は織田の向かいに座った。
「うわあ、お前またそれ。飽きない?」
食べている途中の手元を見て、顔をしかめられた。
「何で。別にええやろ。美味いやんけカレー」
「味の話じゃなくて頻度がおかしい。最近お前からカレー臭がする」
「せんわ!口入るもん全部にあの粉かけとる太宰クンに言われとうないんですけど~」
気の置けない友人同士であるから、相手を腐すようなのもいつも通りのやり取りである。
その後もどうでもいいようなことを話しながら食事を終えて、一息つき何となく会話も途切れたところで、織田は少し前から友人と顔を合わせたなら言おうと考えていたことを切り出した。
「ところで太宰クンなぁ、まーた森先生に怒られとったやろ」
先日廊下で見た光景である。睡眠薬の処方についてまたぞろ森を捕まえてしつこくしたらしく、いい加減にしろと叱られていた。
「……眠れへんの」
太宰は織田の言葉に一瞬目を瞠って、それから決まり悪そうに俯いた。
充血している目とその下にうっすら見える隈が見えて、明らかに睡眠時間が足りていないようだ。
「ワシに出来ることなんてそんなないけど、悩んどることがあるなら話くらいは聞くで~?」
ワザとおどけた軽い調子で笑ってみせる。
「太宰クンはため込み過ぎる性格やからな!いっぱいいっぱいになる前に吐き出しとき」
「うん……ありがとな、オダサク」
俯いたままで太宰も笑って、コーヒーカップの縁を指でいじっていたが、やがて深刻な顔付きでぽつりと口を開いた。
「実は俺、ある人のことを考えると夜も眠れない」
「さて!午後も頑張りまっか!」
「おい何片付け始めてんの」
太宰が低い声で唸る。
「いや~その後に続く話は大体もう分かっとるからええかなって」
「良くねーよ!つーかまだ何も言ってない!」
いやいや太宰が思い煩って眠れない相手など、考えるまでもなく一人しかいないだろう。
心の中で突っ込みつつ、それでも一応は聞く。
「で、芥川先生が何やて?何かあったんか」
この図書館で自分達と同じく侵蝕者と戦う者の内の一人である芥川龍之介は、友人の太宰治が生前から私淑というレベルを越えて非常な憧れを抱いている作家である。
今生その憧れの人物との出会いは果たされたわけなのだが、友人の性格からして毎日部屋に押しかけるとか、しつこく手紙を出しまくるとか、それくらいの猛烈なアピールに出るものと思いきや。
「あっ、スマン。緊張して全っ然話されへん言うてたもんなー、何もある訳ないか」
太宰は芥川を尊敬するあまりに全く彼と喋れないのだった。
同じく尊敬する永井やかつて師事し少々のわだかまりが残る佐藤に対してだって普通に自ら話しかけるのに、芥川のこととなると基本的に遠くからこっそりと見つめるだけだった。
可哀そうなものを見る目に、太宰がムッと言い返す。
「何言ってんだよ。進展したよ」
「へ?おおっ!?そうなんや」
「三日連続で自分から声をかけて挨拶した」
アホらしと再び席を立とうとした織田の服を、太宰が身を乗り出して引っ掴んだ。
「待って。待ってちょっと俺の話聞いて」
「いややー。だって絶対長くなるやろ…」
「お前今さっき聞いてやるって言ったばっかだろ!聞けよ!聞いてくれないと俺死んじゃう!」
なあなあお願いと服を引っ張る手からはうんと言うまで離す気がない強固な意志を感じ、あきらめて織田は腰を下ろした。
「先生を思うだけで胸が苦しくて。一体この気持ちをどうしたらいいのか」
「あ~はいはい」
「ほんと俺は夜も眠れないんだ」
「さよかー」
正直すでに何度も聞いている内容なので、相槌もやる気がなくなるが、太宰は気にせず喋り続けている。
「なあ、どうしたらもっと芥川先生とお近づきになれると思う!?」
「そんなんフツーに話しかけたらええんとちゃうの」
ごく真っ当に返すと、太宰は肘をついて両手で頭を抱えた。
「最早普通が何だったかさえ分からない……」
「そこはもっと気楽にやな」
「無理。実際会ったらもう本人全然カッコイイ。なんかもう全部が尊い。尊すぎて無理。それに、だって……あんなにきれいな人だなんて」
……太宰は小説家としての尊敬を越え芥川を恋しているのだ。本人の弁によると、図書館にやって来たその日から。
作品名:眠れない夜であるのなら 作家名:あお