眠れない夜であるのなら
有魂書への潜書で太宰を連れてきたのは芥川だった。
太宰曰く、本の中で出会った時に、何だかその人を知っているような気がしたそうである。
自分が何者であるかも分からない曖昧な意識の中で、一体これからどこに向かうというのか、ずっと不安な心持ちを感じていたけれど、それでもこのきれいな人と行くんならどこへでも構わないと思った。ずっと手を引いてくれていた透き通る水色の瞳の美しい横顔を、もう絶対生涯忘れないとか何とか。
太宰のすぐ後にやって来た織田は、再会して早々そんなことをまくし立てられることになった。
「ああ、あの時、貴方が誰かも知らなかったけど、潜書室で目を開けた俺に微笑んでくれた先生。俺を、俺の魂をさ、見つけてくれたのが他ならぬ芥川先生だなんて……あ゛~ッもうこれ運命じゃない!?そう思わない!?」
「自分その話何回するん」
「思えばあれが俺の人生のピークだった……」
興奮から一転ため息をつきながら、太宰はごつっと額からテーブルに突っ伏した。
「最初こそ同じ場所にいるってだけで嬉しかったし、ここはまだ人数も多くなくて、芥川先生と親しくなれるチャンスもきっと巡ってくるって信じてたのに…!一度も同じ会派にもなれないまま先生の友人知人その他が次から次に来るしさ~。今じゃあ四六時中先生の周りには誰かしらいるし。俺が入り込む余地なんてもう剃刀一枚分の隙もないんだ。俺がこんなにも思ってたって、もう駄目なんだ。死にたい」
どんより暗い空気を背負ってぶつぶつ言い始めるので、眠れないというのも然もありなん、これは確かに以前より重症化している。聞き流すつもりでいた織田も、ついつい見かねた。
「まあまあ、太宰クン。そう落ち込まんでも何事も一歩からや。最初の挨拶の話やないけど、まずは出来るところから地道に頑張ってこ」
「ヤダ。今すぐ先生とお話したい。親しくなって俺のこと気にかけてもらいたい。他の奴らより特別扱いされたい。あわよくばお付き合いしたいその先もしたい芥川賞欲しい」
「……話しかけるのも出来ひんヘタレやのにそのアグレッシブさ。嫌いやないでえ」
「うるせえオダサク」
うーん…と織田はしばし目の前の萎れた赤いアホ毛を見つめ、考えながら口を開いた。
「せやけど真面目な話、つまらんことでも何でもええから自分から行動せんと何も変わらんのと違う?ちゅーか損やで?もう二度と会えんと思っとった人、本当なら会えへんはずの人……、何の因果かせっかくワシらこの場所にこうしておるんやからな」
何となく自分自身の身も振り返って、最後は少ししんみりした口調になると、太宰はテーブルに伏せったままちっと舌打ちして、ぷいとぶすくれた顔を横に向けた。
「誰もここで正論なんて求めてねーんだよ。空気読めよ」
「ダメダメやな!」
説教無用黙って愚痴だけ聞いてくれとはある意味潔いというか、らしいというか。
知っていたが。
「なー、ワシそろそろ行ってもええ?」
今度は拗ねて黙ってしまった赤い頭に声をかけたその時。
「あ」
織田は太宰の後方を見て思わず声を上げた。
食堂に入って来てこちらに気付き、外套と一つに纏めた長い黒髪を揺らしてやって来る人物。
作品名:眠れない夜であるのなら 作家名:あお