眠れない夜であるのなら
「何だよ、オダサ…」
身を起こして織田の視線をたどった太宰が、背後を振り返ろうとして中途半端な位置で止まった。
芥川がいる。
「太宰くん」
「うあああああ芥川先生!!!」
周囲の人間がぎょっとして一斉にこちらを注目した。
己の顔を見た途端叫び声を上げる太宰に、芥川の方はすっかり困惑した表情になっている。
「芥川先生こんにちはー」
織田が頭を下げると、すぐに戸惑いは引っ込めて、品のいい控えめな笑みでああ織田くんこんにちはと丁寧に返された。
別に織田は芥川に対して太宰のように緊張はしないが、どうも容姿も所作も整い過ぎた感じで、何だかこちらも背筋が伸びてしまう。
「何ぞ太宰に御用ですか」
「いや用というわけじゃないのだけど…」
芥川は突然の事態に反応出来ないで、まだ振り向きかけの変な姿勢のままでいる太宰に向かって、もう一度呼んだ。
「太宰くん」
「は、はひ…っ」
「君今助手をやっているんだよね?こんなところにいていいの」
「えっ……」
「司書の子が探していたよ」
「太宰クンサボりかいな」
「サ、サボってない!ちょっと休憩に来てただけだ!戻るの忘れてたけど!」
変なこと言うなよと睨むのを、織田はテーブルの下で太宰の足を蹴った。
チャンスやで!と目で伝える。
というか、芥川は親切心で声をかけにきただけだろうが、今この機会を逃してはこのヘタレた友人が、次に相手と一対一で言葉を交わすのはいつになるやら分からない。
言わんとするところは察しているのだろう、太宰は一瞬うぐっと唇を噛んで、多少は先程からのアドバイスを受け入れる気になったものか、覚悟を決めたと見えてかすかに頷いた。
バン!とテーブルに手を付き勢いよく立ち上がる。見たことのない、まさに決死という表情で芥川に向き直った。立ち上がる時テーブルにしこたま足をぶつけていたが気にならないようだ。
「あう、あ、あ、芥川せんせい……っ!!」
「うん?何?」
「い、いきなりで恐縮なのですが!よっ、よろしかったらですねっ、俺とっ、あの……」
「うん」
「…その…、お、お時間、を……えー……」
最初の勢いは良かったが、芥川を直視できないのか途中から目がうろうろ泳ぎ始め、だんだん声が小さくなる。
「ああもう、一言言うだけや。”ボク先生とお話したいんですぅ~”」
「って、おいコラァァァァ!!」
「ねえ」
芥川はちょっと首を傾げると薄青い目で、本人の癖なのか、太宰の目を覗き込むようにじっと見つめた。
「君、僕と話したいの?」
「あ…うう…」
見つめられ真っ赤になって固まってしまった太宰に、穏やかな声がさらりと放つ。
「ダメだよ」
ゴフッと血を吐き、一発で耗弱状態になって、屍になっている太宰の代わりに織田が聞いた。
「先生、この男と話すのお嫌ですか?」
「ええ??いや、だって今すぐに行ってあげないと彼女かわいそうだ。ずいぶん忙しそうだったからね」
「ですよね!!」
光の速さで復活した太宰の肩に、ぽんと手が置かれる。
芥川が太宰ににこりと微笑んだ。
「助手も大変だろうけど大切な仕事だからね。頑張って」
「はい!もちろんですっ!」
芥川の言葉も終わるか終らないかのうちに、じゃあ俺頑張ってきますね!!とあっという間に行ってしまった。
織田と芥川が太宰が食堂を飛び出していく様子を見守っていると、廊下の方から何かにでもぶつかったのか、女性の悲鳴とガラガラと物が倒れる音が聞こえてきた。
「……彼大丈夫?」
「気にせんといて下さい。普段通りですわ」
しかし友人が芥川とまともに話せる日はまだまだずっと遠そうである。
まあ自意識に押し潰されて同じ死にたい消えたいと眠れない夜ならば、理由は誰かに焦がれて明かす方がまだ良いだろうから。
「先生」
先程の音が気になるのか、まだ入り口の方を見ている芥川に話しかる。
とはいえあまり煮詰まり過ぎるのも気の毒だ。
「ま、悪い男やあらしまへんので。先生のごっつうフアンですさかいに、お暇でしたら少し話してやったって下さいな。そらもう、夜も眠れん言うてますから」
それだけ言うと織田は太宰がそのままにしていった分の食器も手にさっさと片付け口へと向かって、後には太宰の睡眠と自分との関連性について、不思議そうな顔の芥川だけが残った。
作品名:眠れない夜であるのなら 作家名:あお