花、一輪
地の守護聖ルヴァは今、ようやくとすら言える守護聖としての生活にいよいよ終止符を打つ。
煩雑な引き継ぎ作業ののち、あれだけ山積みになっていた本も整理して久し振りにがらんどうになった書庫の清掃も自らで行い、一息つこうとお茶を淹れ椅子に腰かけた。
湯気を立てている湯飲みをそのままに、ルヴァは何とはなしに執務机の引き出しを開けた。そこには普段使いのルーペや筆記具がしまわれていたが、ここの整理はまだ手付かずだった。
(ついでですから、ここももう整理しちゃいましょうかね)
そう心で呟くと引き出しの中のものを机の上に並べ始めた。
日頃から整理整頓はしていたはずなのにペンだけでも奥からごっそりと数種類出てきて、いつの間にかこんなに増えていたのかと苦笑する。全部まだ日常で使えるものだけれど、お気に入りを見つけるたびにお蔵入りしてきたものたちだ。
書き心地が滑らかなお気に入りの万年筆、誕生祝いに貰った羽ペン、書をしたためるときの筆。ゼフェルに魔改造されて公式の書類には使えなくなったペンもある。これはインクをよりによって濃ピンクに変えられてしまった上に交換もできない代物だが、線を引くとその上下にハートや星のスタンプが追尾してくる変わった作りだ。二本あった内のもう一本は、弾ける笑顔が印象的だった金の髪の女王にあげた。このスタンプ追尾ペンを可愛いと絶賛していたからだ。
どうしてそんな手の込んだ代物をわざわざ二本も作ったのかと思えば、あの人に告げないまま秘めた自分の気持ちを彼には見抜かれていたのだろうと思う。
あの人が好きだった。
明るい笑顔で人々を魅了していくそのさまが本当に天使のようだった、アンジェリークが。
その偉大なる力で宇宙の崩壊を繋ぎ止め、長きに渡る宇宙の歴史に新たな功績を刻んだ二百五十六代女王アンジェリーク・リモージュは、余りにもトラブルの多かった宇宙の過渡期を経験した為か、どの守護聖の交代も待たぬ内に女王の任を降りた。
ルヴァは別れ際になっても想いは告げなかった。彼女がまだ女王候補だった頃から秘め続けてきたのだからと、笑顔で別れる道を選んだ。
しかし彼女が去ってからはぽっかりと空いた胸の空白を埋めるのに苦労した。逢えなくなるとむしろ想いは深まり、広がり続ける空白を幾ら別のことで埋めてみても時間は癒してくれないことを、身に染みすぎるほど理解した。
そんな、シャンパンの泡のように立ち上ってくる思い出の幾つかを追懐したとき、ルヴァの視線は自然と机の上の小物を見つめていた。
鈴を鳴らしたような彼女の声が頭の中で蘇る。
「女王になってからはあんまり作れなかったんだけど、良かったら貰って下さい。人にあげてもいいし捨てて下さっても構いませんから」
そう言って手渡されたものは視線の先にある。いつだったかゼフェルと一緒になって作っていたミニチュアブックが五冊、これまた小さなブックエンドに挟まれている。
縦五センチにも満たない本はきちんと読めるように作られていて、本好きとしては頁を開かないはずがなく、執務室に飾るや否やこの小さき世界に一体何が書かれているかとわくわくした。本文にはアンジェリークが好きだと言っていた童話が書かれており、よくこんなサイズにおさまるものだととても感心した。
豆本作りに飽きたゼフェルはその後、ミニチュアの天球儀を作ってくれた。蓄光して夜間にはぼんやりと光る手のひらサイズのそれも、小さな本の横に並べている。
(……もうやめましょう。過ぎたことを今更考えても仕方がない)
ペンを手に取ればどれもこれもが懐かしくて、その都度ちくりと胸を刺す感傷にこれ以上浸る気にもなれず、ルヴァは再び引き出しの整理に勤しむ。
奥のほうで微かな音を立てて何かが指先に触れ、その大きさを確かめる。軽くて薄い何か────だがその感触には覚えがあった。
そうっと取り出してみれば、名刺サイズの小さな封筒がひとつ。
(はて……? このようなものをしまい込んだ記憶はないですが)
さっぱり見覚えのない小さな封筒に少し困惑したものの、中に何が入っているのか確認しなくてはいけないと思い直し、そろりと封を開けた。
貰ったミニチュアブックよりも遥かに小さな本が一冊。それ以外には何も入っていなかった。
ミニチュアブックを作っていたのは二人だけだったから、そのどちらかからだとは推察できた。だがこれだけではアンジェリークからなのかゼフェルからなのか、ルヴァには分からない。彼らはいつも競い合って──ゼフェルが主に競っていたとも言うが──より小さく綺麗にと何冊も作り込んでいたからだ。
暫らくじいっと手の中の本を見つめ、ふとあることを思い出す。
(本文を読めば、どちらが作ったか分かりそうですねぇ……どれどれ)
アンジェリークは少女らしく優しい物語や神話を好んで選び、ゼフェルは絵や写真をよく選んでいた。以前に罰として書かされた聖地新聞の没原稿と思われるランディの絵も使われたことがある。
縦幅二センチ程度なので頁をめくるのにも気を遣う。クリーム色の表紙を恐る恐る開いてみると、点に見えるが何かが書かれている。
(物語……ではないようですね。詩? いえ、これは散文でしょうか)
早速ルーペで文字を拡大してどうにかギリギリ読めるくらいの極小の文字を目で追った刹那、驚きのあまり息が止まった。
驚愕に見開かれていた瞳にはやがてゆるゆると玻璃のような涙が浮かび、溢れ、色を失くした頬の上をただ静かに伝い落ちていく。
月の見えない夜は星がきれいね。
でも今のわたしはなかなか止まない雨のほうがいいの。
だって、長い雨がいつか晴れたら、あなたとお月見ができたかも知れないもの。
親愛なるルヴァへ、アンジェリークより。
ルーペ越しに垣間見た彼女からの密やかな想いに、ルヴァの涙は止まることなく後から後から溢れ出た。
「そうですね……私も、同じ気持ちですよ、アンジェリーク……」
瞼に強く押し当てたハンカチが湿り果てた頃、彼の中である一つの決意が生まれた。
アンジェリークに、逢いたいと。