花、一輪
そう決めた途端に居ても立ってもいられなくて、ルヴァはゼフェルの執務室へと駆け込んだ。
「ゼフェル、お願いします! あなたの力を貸してくれませんか!」
切羽詰まったルヴァの声に、ゼフェルの眉間にしわが寄った。
「……どうした?」
ぜいぜいと弾む息のまま、ルヴァの視線はしっかりとゼフェルの赤い瞳を見据える。
「あのっ……アンジェリークの、現在の状況を調べて欲しいんです。急な話ですみませんが、こんなことを頼めるのはあなたくらいなので……」
なんとなく状況を察したらしい鋼の守護聖は、静かに椅子から立ち上がった。
「あいつに会いに行くのか? もう結婚して子供がいたら、どうするつもりだよ」
ゼフェルはルヴァをじっと睥睨して問う。ルヴァ自身ここへ来るまでの間にそんな懸念は真っ先に浮かんでいて、それへの答えも既に決まっている。
「そのときはそのときで、お幸せにと伝えるだけですよ」
今あの人が幸せでいるのならそれでいいのだと言わんばかりに淡く微笑む。
「こんなこと言いたかねーけど、生きてるかどうかもわかんねーんだぞ……そっちの覚悟も、できてんだろうな」
怒鳴るがなるが日常だった頃とは打って変わってとても静かな声。
そんな彼の成長ぶりがとても眩しく思えて、それももう見納めだと思った途端に喉の奥がつんと痛んだ。
「……ええ。もし間に合わなかったら……せめて花だけでも手向けたいと思っています」
しっかりと頷いてからの答えと真剣なまなざしに、ゼフェルは満足げに口の端を上げた。椅子に座り直してくるりとコンピュータへ体を向けると、指先がキーボードの上を滑らかに動き回る。
「時間がねーから非合法で調べるぜ、ちょっと待ってろ。あんたは茶でも淹れとけ」
「で、できるんですか?」
しっかり頼っておいて何だが、女王や補佐官、守護聖たちが任を降り聖地を出た後の情報については極秘中の極秘情報だ。早々簡単に突破できるようなセキュリティではない。
「オレをナメんなよ。器用さを司る鋼の守護聖様だぜ? ……それに」
そこで一旦言葉が途切れ、ガリガリと頭を掻いたゼフェルがほんの少しだけはにかんで続けた。
「あんたの弟子みてーなモンだからな。知識の量じゃあんたには敵わねーけどこっち方面なら負けねー。まぁ任せとけって」
自信たっぷりにそう告げている間にも、ゼフェルの指先はカタカタと小気味よい音を奏でていた。
そうしてルヴァがそわそわしつつもお茶を淹れ、時間を持て余してゼフェルの背後を心配そうにうろつき始めた辺りでキーボードを叩く音が止まった。
ぱちりと指を鳴らし、嬉しそうな声が執務室に響いた。
「よっしゃ、ビンゴ!」
それまでずっと椅子に腰かけたり立ち上がったり部屋中歩き始めたりと落ち着きのなかったルヴァがすっ飛んできて、恐々と尋ねる。
「ど、どうですか……?」
ゼフェルはすぐに画面に表示された細かい文字列に目を走らせた────人物名の後に役職と任期、現在の居住地、生年、没年が並んでいる。Aの欄にずらりと並ぶ同名に吹き出しそうになるのを堪え、アンジェリーク・リモージュの項目を探し出した。
「没年は載ってないから、まだ生きてるのは確定だな。どんだけババアになってるかは分かんねーけどよ」
その情報だけでも相当安堵した様子のルヴァの肩から力が抜けていく。
「そうですかー……良かった。ありがとうゼフェル、最後の最後にこんなことをお願いしてしまって、すみませんねえ」
深々と頭を下げるルヴァを横目に見て、ゼフェルは別にどうでもいいとでも言うように両肩を持ち上げてすとんと落とし、アンジェリークの居住地を書き留めたメモを手渡す。
そこで二人の視線が交錯した。ゼフェルが聖地を抜け出して外界に出ない限りは、恐らくもう会うことはない。時間が経過すればするほどに外界の時の流れに飲まれ、二人は分かたれていく。今のルヴァとアンジェリークのように。
口を閉ざした鋼の守護聖に、ルヴァは体に気を付けて、歯はちゃんと磨くように、ちゃんとした食事をとってきちんと眠るように、おなかを出して寝ないこと、成長期に必要な栄養素はどうのこうのと言い始め、いつもであればこの辺りで「うるせーよ!」と話をぶった切られるところのはずが、今日の彼はじっと黙って聞いていた。その態度になんだか拍子抜けして言葉が途切れた頃に、ゼフェルからぽつりと突っ込みが入った。
「なあルヴァ。オレもう成長期終わってるからな?」
それでも、とルヴァは思う。片眉を上げて口を尖らせる仕草は、彼が荒れていた頃とちっとも変わらない。
「ああ……そう、そうですよねえ。あはは。何故だか私の中ではまだ、あなたが聖地に来たばかりの頃の印象があってね……」
「……」
「あの頃のあなたには、本当に、ほんとうに、ほんっとうに手を焼かされましたからねー、インパクトが強すぎるんでしょうかねえ」
「てめぇ……ケンカ売ってんなら遠慮なく買うぞコラ……」
拳を握り締めたゼフェルに、ルヴァはふんわりと微笑む。
「今となってはね、それもまたいい思い出ですよ。むしろ明日から寂しいくらいですかねえ」
そう言ってルヴァは懐かしそうに目を細め、ゼフェルの髪をくしゃりと撫でた。
「おい、いい加減子ども扱いすんなってーの……」
嫌そうな表情をしながらも、彼は手を振り払うことなくなすがままになっている。
「そうですね、あなたももう立派な大人です。これからは後任の守護聖たちを引っ張って行かなくてはね。よろしく頼みますよ」
「……ああ」
「あなたは私の良き理解者の一人でもありましたね。本当に感謝していま、っひゃあっ?!」
言い終わるかどうかの瞬間に、ゼフェルがルヴァのわき腹をつついて茶化した。
「辛気臭ぇ話はこれで終わりだ!」
ルヴァに背を向けて既に温くなったお茶を一気に飲み込む。いつの間にかすっかりと馴染んだほろ苦い緑茶の味わいが、迫り来る胸の痛みを流してくれた。
暫くの間空っぽになった湯飲みに視線を縫い止めて、それから静かに口を開く。
「今度は逃げんなよ、ルヴァ────元気でな」
奥手な彼とあの金髪リボンの元女王が今度こそ擦れ違うことなく共にいられるようにと、ゼフェルは切に願う。しんと静まり返った部屋で、ただ密かに────