花、一輪
ルヴァの中にどこか腑に落ちない感覚は残っていた。しかしここでどうこう言っていても単なる憶測に過ぎないと気持ちを切り替える。
「それにしても、このお魚美味しいですねー。味の濃さや焼き具合、付け合わせの量に至るまで丁度良くて、まさに完璧な仕上がりでしたよ」
好きな女性の手料理だという欲目もあるのだろうが、手際の良さを見れば彼女がこの星できちんとした生活を営んできた確かな証拠と言えるだろう。何しろ候補時代の調理の腕は、お菓子作り以外は正直微妙なレベルだったと記憶している。
ルヴァのストレートな絶賛に気を良くしたのか、アンジェリークの頬がほんのりと赤らみ、それから笑みがゆるゆると顔中に広がる。
「もー、そんなに褒めても何も出ませんよ。普通に焼いただけだもの」
そして食後にルヴァが食器類を片付け、お茶を淹れて戻ってきた。
ティーカップを前にアンジェリークが口角を上げた。
「ありがとう、いただくわ。あぁ苦しい、食べすぎちゃったかも」
かつての彼女と比べるとやはり少食になっているようで、椅子の背もたれにぐたっと身を預けている。
元々どちらかと言えば魚のほうが好みのルヴァとしてはこれくらいのバランスがいいな、なんてことを考えていた。
「とっても美味しかったですよー。明日は私もお手伝いしますからね」
アンジェリークの真向かいで台帳片手に席に着いたルヴァが俯いた拍子に青緑の前髪がさらりと揺れて、瞬きを忘れて眺め入る。
ついと顔を上げた彼が、アンジェリークの食い入るような視線にほんの少しだけ驚いた顔を見せた。
「ど、どうしましたか?」
「ううん、何でもないわ。ルヴァはいい旦那さんになるんだろうなーって思ってただけ」
それきり静かに目を伏せた彼女の真意が掴めずに、さてどう答えたものか、とルヴァは戸惑う。
アンジェリークの良き夫という意味でなら、そうなる自信があると言いたい。そう在るための努力は惜しまないと言うべきか。
女性の心理というものは複雑怪奇で、いまだに良く分からない。けれど彼女がこんな表情をするときは、恐らく彼女自身を除外しての発言ではないか、ということだけは何となく分かってきた。
「あなたもね。いい奥さんになると思いますよ」
こう返せば彼女の心の中にある惑いの振り子は大きく揺れ、そして────反動が来る、とルヴァは確信を持っていた。
そして、すぐにルヴァが予測した通りの反動がやってきた。
「…………わたしは……もう遅いから」
「いい加減にして下さい、アンジェリーク」
アンジェリークの言葉尻を遮って、目を閉じたままの彼女をじっと見据えた。
彼にしては低く静かな声音には、嘘や言い逃れなど一切させないような気迫が宿る。
「…………!」
青褪めてはっと目を開けたアンジェリークの視界に、睨みつけるほど真剣な顔つきをしたルヴァが飛び込んできた。
「私があなたの前でターバンを取ったのを忘れたんですか? あれは生涯に渡りあなたをずっと愛し抜くという誓いであって、決して軽々しい気持ちではありません」
「……ごめんなさい」
しゅんと項垂れたアンジェリークを突き放すことなどできそうもないルヴァが苦笑する。
「あなたが色々と気にして揺れ動いているのは、私なりに理解しているつもりですよ。だから待つと言ったんです」
一進一退どころかむしろ一歩進んで二歩下がっているような気さえしてくるが、九つ離れていたルヴァですら躊躇していた彼女への想い。親子ほど上に離れてしまったアンジェリークの葛藤はそれとは比較にならないほどだろう。
おもむろに台帳を開き、それへと視線を落としながら緩く息を吐いた。
「今は信じて欲しいとは言いません。私がいくら言葉を連ねたところであなたが納得できなければ無意味ですからね」
言葉を重ねても信用されないのなら、信用に値する行動で想いを示すだけ────そう心で呟いて、俄然やる気を起こしたルヴァであった。
ルヴァが熱心に仕入れ状況を確認しながらアンジェリークの説明を聞くうちに、すっかり夜も更けていた。
アンジェリークが眠そうな顔で散らばった伝票類をかき集めて束ねている。
当初言っていた主力商品の説明だけでは飽き足らず、彼女は結局ほぼ全ての商品説明に追われてしまった。
使われている素材の確認に始まり、それらの産地や製造方法に至るまで分かる範囲で細かく答え、何故それを仕入れようと思ったのか、どこを気に入っているのかといったところまでルヴァの突っ込みが入った。
似たような内容を客に訊かれることは幾度もあったが、ここまで知ろうとする人間はそういないと言ったアンジェリークに対して、ルヴァは穏やかに答えた。
「頭の中で一旦把握しておいて、相手の興味に合わせて説明する部分をピックアップするんですよ。あなたが九つのサクリアをその時々で使い分けたように、情報だっておんなじです」
彼のこういうところは候補時代から全く変わらないな、とアンジェリークが目を細め、このまま徹夜をしそうな雰囲気をやんわりと止めにかかる。
「ルヴァ、もう切り上げたほうがいいわ」
「うーん、そうですねえ……もう少し補足しておきたいところですが、とりあえずこれで明日は乗り切れるでしょう」
と言ってはいるものの、台帳を閉じる気配はない。
「明日っていうかもう今日よ。ほら寝ないと」
「はいー、あと少ししたら寝ますから……あなたは先に休んでいて下さい」
何やらとても寛いだ表情で頁をめくるルヴァの姿に、くすりと口角を上げて肩を竦めた。
「分かったわ……あんまり遅くならないようにしてね。お休みなさい」
「お休みなさい、アンジェ」
静かに立ち去っていくアンジェリークの背に視線を投げ、それから再び仕入台帳へと目を落とす。
資料としてはもはや得るものはなかったし、そこに旅行記のような物語はどこにもない。しかし手書きで丁寧に記された内容は、彼の知らないアンジェリークが積み重ねてきた歴史そのものだ。
一体どんな暮らしをしてきたのだろう。何を思ってあの可愛らしい品物の数々を仕入れてきていたのか。そして今はどんなものが好きなんだろう────そんなことを考えながらゆっくりと頁をめくった。
それから小一時間が経過して、アンジェリークはもう完全に寝入ったはずと思った頃に寝室へと向かった。
彼女は幸いにもベッドの端で外側を向いていたため、足音を立てないよう静かに近付きそろりと潜り込む。
一緒に寝室へ来れば否応にも触れたくなってしまう。台帳の確認はそれを避ける時間稼ぎの意味も兼ねていたのだった。
ナイトテーブルの上で仄かな明かりを放つランプ────暗闇でルヴァが足をぶつけたりしないようにと灯された淡い光。今はすうすうと寝息を立てている彼女のこんな小さな優しさが胸に染みて、無防備な寝顔をじいっと見つめた。
”おさわり厳禁”と呪文のように繰り返して眠ろうとしていたが、結局まぶたにこっそりと口づけてしまった。これは単なるおやすみのキスだから、と誰にともなく言い訳をしながら。