花、一輪
そんな感傷よりも彼女の側に戻るのが先決とばかりに急いで踵を返していくルヴァの背を、オルヴァルは静かに見送った。
ルヴァが玄関扉を開けた途端に美味しそうな匂いが鼻先を掠めて、急激な空腹感に襲われた。
すぐに室内履きに履き替えて、アンジェリークの元へと向かう。
「アンジェ、戻りましたよー。遅くなっちゃってすみません」
キッチンで何か作業をしていたアンジェリークへそう声をかけると、くるりと振り返ったアンジェリークがにこりと微笑んだ。
「お帰りなさい。もうすぐできるところだから、ちょうど良かったわ」
大きなボウルには色とりどりの野菜が入っていて、ドレッシングをざっくりと絡めていたようだ。
「鮮やかで美味しそうですねー」
「ふふ、二軒お隣のロマーノさんが作ってるお野菜よ。ほら、今朝玄関に置いてあったアレ」
家を出たときに袋に入れられた野菜が玄関脇に置かれていて、アンジェリークはすぐにそれを冷蔵庫へとしまい込んでいた。
「ああ……あれですか。いつもあんなふうに置いてあるんですか?」
「そうなの、作りすぎたからーってお裾分けしてくれるのよ。貰ってばかりじゃ悪いから色々お返ししてるんだけど、そろそろネタ切れね」
はい味見、と言われサラダを口の中に放り込まれた。少しだけほろ苦いレモンの風味がする。
「ガーラントさんのレモンってね、ワックスとか使ってないの。だから皮もドレッシングに使えちゃう。ね、どお? 酸っぱくない?」
「ええ、ちょうどいい酸味で美味しいですよー。お腹がすいてきちゃいました」
楽し気に喋りながらもエプロン姿でテキパキと動き回るアンジェリークにぼうっと視線を縫い止めて、ルヴァはぽかぽかと温かな気持ちに満たされていた。
(……やはりアンジェは綺麗な人ですねえ)
髪を緩く纏めたお陰で露わになっている白いうなじがやけに気になる。うなじから肩へと続くなだらかな曲線を目で追っているうち、アンジェリークが振り返った。
「今からお魚焼いちゃうから、サラダの盛り付けお願いしてもいいかしら?」
「ふぁっ!? は、はいっ!」
突然の声かけに驚いて、うっかり変な声が出てしまった。
少々やましい気持ちで見ていたせいか、それをきつく咎められたような気分になったルヴァはあわあわと手に持ったままの台帳を置きに行き、大きく深呼吸をして心を落ち着けてから作業を始めた。
先程のサラダをトングで掴み二人分の皿に盛りつけながら、視線は再びアンジェリークへと吸い寄せられていく。
フライパンを傾けて白身魚に油を回しかけているようだ。コンロの火を落としたのが見えてそろそろ盛り付けの段階に入るだろうか、という辺りでルヴァは空になったボウルを洗い始める。
それからアンジェリークが鼻歌交じりで平皿にソースを敷き、付け合わせを並べ、主役の白身魚が置かれたのを確認して、本日の役目を終えたフライパンも即回収してさっさと洗ってしまう。
滞りなく調理器具の洗い物が終わったところで横からアンジェリークの顔がふいに近付き、ルヴァの頬にそっと柔らかいものが触れた。
「ありがとう、助かったわ!」
一瞬何が起きたのか分からずに固まっていたルヴァが状況を把握した途端、一気に赤面した。
(今のはアンジェリークの唇で、それが頬に触れたということは、私は彼女から口づけされたということで…………!)
満面の笑みを浮かべたアンジェリークがルヴァの背を押してテーブルへと促す。促されるまま席について、ようやく言葉が出た。
「い、いえ、大したこともできなくて……後片付けは私がやりますから」
ちょっと前まで二人の間に線引きをしたがっていた彼女からの不意打ち。今後の二人の関係を前向きに受け止めたような、明確な意思表示とも受け取れる口づけにすっかり舞い上がってしまったルヴァは、余りの嬉しさにそれ以降の言葉がどこかへ消し飛んでいた。
知識は豊富にあれど恋愛方面ではからっきしなルヴァは、こんなときに何か気の利いたセリフでも言えたら良かったのにと心底思う。アンジェリークの手料理を堪能しつつ、脳内で必死に次の話題を探した。
「あの……アンジェ」
「なあにー? あっ、パンおかわりする?」
すかさずパンの入った籠へと手を伸ばしたアンジェリークを慌てて引き留めるルヴァ。
「いえ……おかわりはもう結構ですよ。その、さっきオルヴァルとお話していたんですけどね」
ぱくりとフォークを咥えたまま頷いているアンジェリーク。
「そのー……あなたが馬車を敬遠していた理由を聞いちゃいましてね、えっと……それで、言っちゃいました。私たちが元女王と守護聖だと」
秘密にしておきたかったと言われても仕方がないことを言ってしまったため、恐る恐る彼女へと視線を投げてみる。
「あら、びっくりしてたんじゃない? わたしたち、お互いの過去は知らないし」
特に気にしたふうでもなくけろりと告げた後、アンジェリークは白身魚のポワレに特製のブールブランソースを絡めて口に運ぶ。
「それで今まで成り立ってきた事実のほうが、私としては驚きなんですがね。彼がもし仮に悪い人だったら大変なことになってますよ」
気付けばアンジェリークの動きを追うように黙々とポワレを口に運んでいるルヴァ。いわゆるミラーリング・エフェクトと呼ばれる心理的効果なのだが、当の本人がそれに気づいた様子はない。
「そうね。近くに知り合いもいなかったし甘えさせて貰ったの。出会った頃からずうっと助けてくれてるから頭が上がらないわ」
頼りにできる親戚もおらず、たった一人だった彼女を支えてくれたことには本当に感謝の気持ちが沸き起こる。
「あなたに対しては好意以上の気持ちがあるように見受けられますけどねぇ……」
一度迫ったことがある、とは言っていた。
しかしそれ以降は友人として、また容姿の似通ったのをいいことに実の姉弟のように寄り添い生きてきたようだ。
だが彼の人生には生まれ育った家があり、家族もいる。年齢的に早く孫の顔が見たいと言われていてもおかしくなさそうなのに、恋人すら作らずにい続けているのは何故なんだろう。
(もしかして、読書が生き甲斐のようになっていた私と似たような感覚なんでしょうか……そう仮定すると、現在の彼の姿はアンジェを好きになる前の、私の未来とほぼ同じ……?)
誰かと結ばれることもなく、ただ安穏とした暮らしを送るだけの無味乾燥な日々。
それも一つの選択肢だろう。現にルヴァとて、本に埋もれ恋を知らぬまま独身を貫く可能性のほうが高かった。
じっと目の前の皿を凝視したまま何かを思案している様子のルヴァへ、アンジェリークはちらりと視線を送る。
「あの子はわたしを恋愛の意味で好きだったわけじゃないと思うわ。周りに言われて肩書をつけようとした、ってだけ」
若い男女二人が仲良く毎日を過ごしていれば、付き合ってるんじゃないのか、結婚しないのかと周囲は勝手に騒ぎ出す。
あの頃オルヴァルがそんな周囲の言葉に染まっていった過程を、アンジェリークは当事者ながら冷静に受け止めていたのだった。
「うーん……そう、でしょうか。まああなたがそう言うのでしたら、きっとそうなんでしょうねえ、うんうん」