花幻の蕾
「肉体労働は苦手なんだけどなあ、全くもう…」
護法童子を戻し、ぜえぜえと息を整えるカイトを、鬼はこの窮地にあって、ただ無表情に見つめ返していた。声を上げたり術を解こうともがくでもない。先程までの激しさが嘘のようだった。
と、ここでカイトはようやく――女の格好をしているのと顔立ちのせいで分からなかったが――鬼が男であるのに気が付いた。よく見ると体つきも丸みのある女のそれではなく、しなやかだが骨張って直線的なものだ。
だが、男と知れてもやはり鬼は美しかった。
「どうした。殺さぬのか」
太刀を突き付けたまま黙ってしまったカイトに、鬼が口を開いた。
見蕩れていた、などとも言えず、カイトは先程から感じていた疑問を口にした。
「……あのさ、実は君って本当はもっと強いんじゃないの?」
鬼がわずかに瞠目した。
「何故」
抑揚のない平坦な声が問い返す。
「お前は我を殺すのであろう?聞いて何とする」
「さっきから気になっててさ。もしかして俺に手加減した?」
「まさか」
違和感の正体は、鬼から感じる妖気と実際の行動の不釣り合いだ。鬼神の類と比肩するような気を纏わせて、的確な攻撃をしかけながら、カイトの予測する動きに一歩及ばない。
「途中何度かひやりとしたよ。あとほんの少し速ければ、力を込めれば、俺を殺せたかもしれないのにどうして?」
なおも聞くカイトに相手は面倒そうに口を開いた。
「…確かにな。以前の我なら人間如きに後れは取らぬ。最初の一撃で貴様の首など引きちぎっていただろう」
緋色に燃えていた瞳は、今は湖水の様な青だった。
「以前…?」
「ここ一年は何も喰ろうておらぬのでな」
訝しげな顔に、やはり投げやりな調子で答える。
「我は人や物の怪を取り喰らう鬼。喰わねば力は弱くなる一方だ」
「それは……君の主人が“食事”を禁じたということ?」
「まあそういうことになろうな」
妙な言い方をした。
「そんなの黙って受け入れたの」
「逆らえはせぬ。真の名を知られておっては」
お前も術師なら分かろうと目が告げている。
名とは妖の存在そのものだ。術師は真の名を知り妖を支配する。
「どうしてそんな?」
「さあ?…理由など分からぬ」
式を使役する身ならば、より強い物の怪や鬼を手に入れたいと思うはずである。その辺の雑鬼とは明らかに格の違う目の前の鬼を、ここまで弱らせるとは、この鬼が余程主人の機嫌を損ねでもしたのか。しかし、ならば先の鬼の身を気遣うような男の態度は合点がいかない。
「ただ」
鬼は動けぬ身体を何の感情も浮かんでいない目だけを動かすと、骸と化した主人を見た。
「ただ、我が妖や人を殺すのも喰うのも忌んだ。人と同じものを喰らい、人の姿で傍らに居るようにと望んだのだ。……いくら真似をしたところで我は人ではないのに」
独り言のように、最後は口の中で小さく呟く声だった。
鬼が主人の意図をどのように解釈していたのか、男が何を思ってそう命じたかなど余人の知るところではないが。
「つまらないね」
話の間、終始不機嫌そうな顔をしていたカイトがぼそりと言った。
「君、俺の式にならない?」
「何」
「君の主人は死んで、契約は無効。今俺が太刀を振り下ろせば君は死ぬ。・・・ねえ、君だってこんな所で死ぬのは嫌でしょう?俺と来なよ」
見下ろす表情は、傲岸なほどの自信に満ちている。
「欲しかったら好きなだけ喰えばいいし、俺はそれを与えてあげられる」
鬼の目が探るように細められた。
「断ればどうする」
「断るの?」
「どうであろうな。先刻は貴様を喰ろうてやるつもりだったが、見た通りお前の様な若造一人殺す力も残っておらぬようだ。外法使いが言う事を聞かせる方法ならいくらでもあろうに、我の意思など関係あるのか」
「おっと、こういうのは形も大事なのさ。君の言葉で返事を聞かせてくれないか」
「望む言葉を聞けるとは限らんぞ。拒めば我を放して自由にするとでも言うのか?」
そうだなあとカイトは一瞬思案するような顔をすると、突然突きつけた太刀を退け、鬼の顔の脇をかすめて床面に突き立てた。覆いかぶさるように顔を近づけ、見た目だけなら人好きのする笑顔で笑う。
「断ったら君が分かったって言うまで口説くよ。頷くまで放さない」
「……何だそれは。結局無理強いと変わらぬではないか」
初めて鬼に、表情らしきものが浮かんだ。
「お前、名は」
「カイト」
カイトは鬼の手を取って口元に寄せた。
「で、どう?俺のものになってくれるの」
「長の年月、そろそろ生きるのも飽いていたところだ。またぞろ人に仕えて長らえるなど…」
「俺といたら退屈だけはしないと思うね」
人形のように愛でているよりも、この鬼は肉を裂き、血を浴びて、命を喰らって強く強くある姿が、ずっと美しい。そしてそれはまた、この鬼自身も欲しているものだ。
鬼の口の端がわずかに上がった。
「変わった男だ」
がくぽは青い瞳でカイトの目をしっかりと見返すと、夜気に凛と良く通る声で言った。
「―――良いだろう。我が真の名は“神威”!これより先、お前に仕えよう」