花幻の蕾
動かなくなった男をを見つめていたのは、ほんの僅かだった。
振り向いた鬼は、再び襲いかかった。主人の仇打ちか、次は己と思ったのか、只々人を害する鬼としての本能か、いずれにしろ、鬼は完全にカイトを敵とみなしていた。
「オン・バザラ・ギニ」
カイトは慌てることなく、真言を唱えつつ懐から護符を取り出し、空中に放つ。
「ハラチハタヤ・ソワカ」
身体を覆うように、呪力で出来た障壁が築かれる。
耳障りな金属音をたて、鬼の爪が結界の表面を滑り、弾かれた鬼がたたらを踏んだ。
依頼はすでに達成され、カイトにこの場に留まる理由はなく、逃げ出すだけならば容易だった。だが、カイトはそうしなかった。
鬼から感じる妖気は相当に高位の部類だ。それこそあの程度の術師が召し使うには過ぎるくらいに。
カイトは普段から仕事は効率を第一とする合理的な男だが、ごく稀に興味を持つ事態に遭遇した時は、それらを天秤にかけ、興味を取るような男でもあった。
少しばかり遊んでやろう。ある程度以上の実力を持つ物の怪を手に入れる機会はなかなか少ない。連れ帰って使ってやってもよい。
そう決めるとカイトは改めて鬼を見据えた。
(さてどうするか)
今回は楽な仕事と碌な準備もしていない。長引けば不利だ。
カイトは足に力を込め、地を踏み締めた。見た目に寄らず、単純に力が強い。気を張っていなければ結界が破られそうである。
鬼は舞と見紛う洗練された動きで、躊躇なく急所を狙ってくるえげつなさがある。目の前を、長い紫の髪が流れるように揺れた。
長引かせまいとは思っても、やはり二度目はなかなか隙をみせてはくれない。時折反撃しつつ、攻撃が途切れる間を待つ。
攻防を繰り返しながら、珍しく戦いに際し気分が高揚している自分をカイトは自覚していた。
その中で、これは予想以上の拾いものであるかもしれないと思う一方、妙な違和感も覚えていた。
(予想以上?いや、違う。むしろ……何故だ?この鬼は―――)
思考を中断させるように、不意に攻撃が激しさを増した。相手は一気に勝負を着けるつもりのようだ。
気押されたカイトが後ずさろうとした時、腐った床に開いた穴に気付かず足を取られた。
「しま…っ」
転倒は免れたが、床に手を着いたところを、すかさず間合いを詰められ、カイトは慌てて立ち上がる。だがすでに目の前まで来ていた鬼は、カイトに向かって手を伸ばしていた。
妖が触れることはかなわない結界。ほっそりとした美しい手が、傷つき、皮膚が裂け、血を流し始める。激痛に苛まれているはずなのに、鬼はわずかに険しい表情を浮かべるだけだった。
やがてぎちぎちと軋むような音がしたかと思うと、唖然としているカイトの目の前で
「!」
玻璃が割れるような音を立て結界が砕かれた。
機を見るに敏。鬼はカイトの体を突き飛ばすと、それを追いかけ容赦なく床に叩き付けた。
痛みにカイトの呼吸が止まる。体は片手で簡単に地に縫いつけられてしまった。空いた方の手がうなりをあげ、心の臓めがけて振り下ろされる。
「壁!」
カイトは咄嗟に簡易の障壁を築いて防いだ。
「ぐ……ッ」
至近距離で弾いた反動が、ビリビリと腕全体を伝う。相手が怯んだのはほんの一瞬だ。符を用いない防御、本気で来る次は防げない。しかしここでカイトは笑みを浮かべた。
鬼の背後の床、先刻倒れた際に仕掛け置いた御幣がある。
「来いッ!護法!」
背後に呼び出された護法童子に、鬼の気が逸れる。押さえつける手の力がわずかに緩んだ瞬間、カイトは身体を跳ね上げ、渾身の力で逆に鬼を床へと押し倒した。
「オン・キリ・キリ…ッ」
すばやく馬乗りになって、腰の太刀を引き抜き鬼の喉元につき付ける。
「オン・キリウン・キャクウン……!」
動きを封じる呪を唱えれば、鬼の体は途端に強張り動きを止めた。