リハビリ一日トライアル
⑤(あ、やっぱ今の無し!) 虎猿
唯でさえ小さい背中が、今日は一段と小さく見える。
だからと言って項垂れている訳ではなく、泣いている訳でもなく、小さく丸まった背中から滲み出るものは紛れもなく怒気の類であった。
俯いて背を向けた頭の天辺には、ひょこりと突き出した茶筅髷。もし感情が目に見えると言うなら、その髷の先からもくもくと煙が上がっているかもしれないなあと、高虎は他人事のように一人ごちた。
実際に他人事なのだが、その煙を上げさせている原因が自分にあるというのであれば素知らぬふりをする訳にもいかず、さりとてどうすれば良いのか見当もつかぬ。目の前の小さな生き物が――とは言え自分より一回り、いや二回りほど小さいというだけでそれは立派に人間のかたちをしているのだから生き物という表現は正しいような正しくないような――怒り狂っているのは理解出来るのだが、その原因に高虎はとんと心当たりがなかった。
ぼんやりと立ち尽くす高虎の前で、拗ねているらしい秀吉は殆ど身じろぎすらしない。つい先刻、登城するなり秀吉の妻であるねねに腕を引っ張られて否応なしにこの座敷に放り込まれ、「何とかしろ」と言葉少なに命令されたのだが、さてどうすれば良いのか。
一応、雰囲気からして怒りの原因が自分にあることは薄らとわかる。拗ねている秀吉は(単に怒り狂っている時は饒舌になって当たり散らすのが常だが)いつも周りの良い舌を止めて沈黙する癖がある。要は素直に怒れないような事情があるという事なのだろうから、また酷く子供染みた感情の発露なのだろうなあと声には出さずに呟いて、高虎は深い溜息をついた。
「兄上、こっち向いてください。何に拗ねているのか知りませんが」
「拗ねておらん」
――いや拗ねているだろう。
不機嫌でござい、とありありとわかる声音や口調で返された一言に、高虎も苦笑する他にない。
どうしてこうも幼いのか。頭は回るし狡賢いし、そこそこ腹も黒い上にことを巧く運ぶ為なら時に卑屈になることすら厭わない癖に、この御仁は時として酷く子供染みたことをする。或いはそうして自分の中で感情の均衡を保っているのかもしれないが、高虎にはその辺りの真相はわからない。無理にでも聞き出そうとすれば口を割らせることも出来るのだろうが、本人が言いたくないというのであれば、無理に聞き出す必要もないのだろう。
――問い詰められるのを待っているのかもしれないが、。
だったら尚更聞かずにおく方が良いのかも知れぬと考えてしまう辺り、己もそれなりに意地が悪いのだろうと思う。秀吉がその背中から放っている怒りの気配には、『構ってくれ』と言う甘えのようなものが混じっている。それも比較的わかりやすいかたちで。慣れないものであればつい絆されてしまいそうなその気配は、或いは彼の人たらしとしての才覚の発露であるのかもしれない。ついうっかりそれに乗せられてしまえば、あとはずるずると彼に引き込まれてしまうような。
ところが皮肉なことに、高虎は秀吉のそんな性格や性質には慣れている。拗ねているから構ってくれ、自分は怒っているのだと気配で語る小さな背中は、はたしてどこまで本気で怒っているのだろう。その点に関しての読みについては、高虎も余り自信がない。何しろ相手は『人たらし』なのだ。
――尤も、疾うに誑し込まれていると言えばそれまでなのだが。
諦観とも何とも言えない感情を腹に抱えつつ、高虎は秀吉の背後に腰を下ろす。小さく丸まっている相手の背後で仁王立ちしていても、秀吉の感情を逆撫でするばかりで宥めるには向かないと判断したのだ。溜息をつきながら緩慢な動作で高虎が腰を降ろして胡坐を掻くと、その衣擦れの音に気づいたものか秀吉の背中がぴくりと震える。どうやら高虎の動向に対して無関心である訳ではないらしい。やはり構って欲しいのだろうな、と腹の底で苦笑しながら、高虎は秀吉の背中に声をかけた。
「俺が悪いなら謝りますから。機嫌を直してくださいよ」
それは何気ない一言ではあったが、――何しろ高虎と秀吉の喧嘩は日常茶飯事で、こんなことは高虎自身も、そして周囲の人間も慣れっこになってしまっている節がある――途端に秀吉の髷が左右に小さく揺れたような、気がした。
「‥‥本当に悪いと思っておるか?」
「へ?」
漸く反応があった、と高虎はほっと胸を撫で下ろしたが、呟かれた声と言葉は不機嫌そのものな上、いつものように癇癪を起して喚き散らし、発散するような気配もなければ冗談で言っているような気配もない。おや珍しい、と目を見張ると同時、高虎は声には出さずにまずい、と呟いていた。
――どうやら本気で拗ねているらしい。
「わしが何で怒っておるのかわかっとらんじゃろう」
「‥‥兄上が怒っていることはわかってますがね」
「悪いと思ってない癖に謝るのは、おまえの悪い癖じゃ」
「――――」
どうやら迂闊に謝罪の言葉を口にしたのが悪かったらしい。完全に拗ねた口調になっている秀吉の背中をぼんやりと眺め、さてどうしたものかと高虎は思案する。
確かに秀吉が言う通り、高虎は秀吉が怒っている原因について自分が関わっている可能性を感じてはいるものの明確な答えを持っている訳ではない。故に秀吉の鋭い言葉に言い返す言葉を失うしかなかった。
少しずつ口数が多くなってはいるものの、秀吉の声は未だ怒気を孕んでいる上にその口調は酷く子供染みて聞こえる。先刻も思ったが、感情が目に見えるなら今の秀吉の頭からは先刻以上の勢いで黒煙が噴き出し、部屋中を薄らと灰色に濁らせている頃かもしれない。
さて困ったな、と呟いて、しかし高虎は焦って言葉を重ねる事はしなかった。また迂闊なことを言えば秀吉の機嫌は更に急降下するであろうし、これ以上の感情下落は浮上するのに時間を要する。その場合、とばっちりを受けるのは高虎である。恐らくはこれで秀吉の機嫌が更に悪くなれば、ねねにも容赦なく責められるに決まっている。むしろ何もかも(高虎が直接関係あるか否かは別として)を高虎の所為にされて余計な仕事まで押し付けられかねない。
良いように利用されているという自覚はある。あるのだが、――それが満更嫌でもないのだから手に負えない。
高虎はひとつ深々と溜息をつくと、降参だ、と両手を挙げた。
「わかりました。今のは俺が悪かった。だから機嫌を直してください」
「またそうやってわしを丸めこもうとしておるのじゃろう」
「だから。悪いと思ってもいないのに謝ったことについては謝ります。だからいい加減、子供みたいに拗ねるのはやめてください。‥‥何でも好きなもの買ってあげますから、」
――兄上の好きな茶屋で一緒に茶でも飲みましょう、と。
そう続けるつもりだった高虎の言葉は、しかし最後まで言い切ることが出来なかった。
高虎の言葉が終るより早く、すっくと秀吉が立ち上がって振り返る。その顔には最早怒気はなく。
「よしそうか、何でもじゃな!」
「え」
「よしよし、ではねねと相談して何が良いか決めるとしよう。そうじゃな‥‥何が良いかの~」
「――――」
突然上機嫌であれも良いこれも良い、と指折り数え始めた秀吉の顔をぽかんと見上げ、高虎は一瞬何が起きたのかを理解出来なかった。
作品名:リハビリ一日トライアル 作家名:柘榴