第二部 2(75)近づいてゆく距離
「ねえダーヴィト」
「はい?何でしょう」
「あなたの親友だった…その、クラウスという青年について教えて頂けないかしら?」
とある週末の午後―。
マリア・バルバラは失踪した弟(実のところは妹なのだが)の抱えていた秘密を教えて貰って以来、何かと相談相手になってもらっていたダーヴィト・ラッセンを遅めの昼食に招き、その後彼が持参したチェロの音に耳を傾けていた。
サロンでダーヴィトがマリア・バルバラに披露していたのは、バッハの「無伴奏チェロ・ソナタ」だった。
その演奏は、殊更に感情を表に出すことのない抑制の効いた演奏で、それがマリア・バルバラには心地が良かった。
妹の先輩だったという聖セバスチャンの生徒のチェロに耳を傾けながら午後のお茶を頂く。
演奏が終わり、ダーヴィトがそっと弓を下すと、マリア・バルバラが拍手を贈った。
「素敵だわ。チェロの演奏を…こんなにじっくり聴いた事は初めてだったのだけど…深みがあって味わいのあるいい音ね」
「ありがとうございます。チェロは…ヴァイオリンのような華はないかもしれませんが、そのかわりヴァイオリンにはない深みがあります。…どことなく、チェロの音色はあなたのようだと思いませんか?」
「どうせ私には…華がありませんわ。― さぁ、召し上がれ」
マリア・バルバラが少し拗ねて見せて、お茶をカップに注いでダーヴィトに勧めた。
「これは失礼いたしました。…でも僕は―、このチェロという楽器の深みと揺るぎなさを、こよなく愛しているのです」
ダーヴィトのその言葉にマリア・バルバラが少女のように僅かに顔を赤らめ、きまり悪そうにふいとそっぽを向いた。
厳格だけどその一方で、少女のような純粋さも失わない、そのアンバランスが可愛らしい女性だ…とダーヴィトは思った。
「フフ…」
「何がおかしいの?」
「いえ、何でもありません。…いつもながら美味しいお茶ですね」
「そう…」
二人の間に、薫り高い紅茶の芳香に包まれた、ゆったりとした午後の時間が流れる。
~~~~~~~~~
「そう、クラウスの話でしたね」
「ええ」
「クラウスは…、ヴァイオリン科でトップの腕を持つ生徒で、その才能と技術はうちの学校のヴァイオリン科の中ではず抜けていました。才能という点でいえば、あのイザークに匹敵するものであったと思います。学内演奏会でイザークと組んで演奏していた、あの生徒ですよ」
「ああ。― あの、背の高い?」
「そうです」
「妹は、ユリウスは―、なかなか面食いね」
「はは…。確かに。でも、やつは男女問わず誰からも好かれる人間でしたから…、彼女が普段近しく接しているうちに、やつに惹かれたのは必然だったのかもしれませんね」
「そう…。そんなに魅力的な人だったのね」
「ええ」
「彼は…ロシア人だった…のではないか、とあなた初めて会った時に仰ったわね」
「ええ。分かりやすい所では…言葉のごくわずかなイントネーションや言い回し…。それと、演奏スタイル…かな。やつは確かに上手かったし曲の解釈や洞察力も深かったが…、あの独特の…僅かに覗く節回しや音色は…、何と言うか上手くは言えないのだけど、生粋のドイツの文化で生まれ育った人間とは僅かに異なるものがあるように感じてはいました。決定的だったのは…、寄宿舎の奴の部屋に飾られていた写真ですね」
「写真?」
「ええ。やつの婚約者としてよく学内演奏会などの学校行事に顔を見せていたアルラウネ・フォン・エーゲノルフ嬢という女性がいたのです。その彼女と仲良さげに肩を抱いて写っている奴によく似た、だけど奴ではない黒髪の男性の写真が寄宿舎の部屋に飾られていました」
「それで?」
「気になるでしょう?やつの婚約者と仲睦まじげに写っているやつにそっくりな男性の写真なんて。…だから、やつと一緒に飲んで、あいつが先に寝入ったすきに、写真立てから写真を外して見てしまいました」
「まあ!」
「そうしたら写真の裏に…1900年ドミートリィ・ミハイロフ21才 アルラウネ・フォン・エーゲノルフ17才 と書かれていました」
―だから、その男性は恐らく奴の兄か従兄弟か…血縁関係にある者若しくはあった者で、クラウスもまた恐らく姓はミハイロフである可能性が高い事、それからその姓からロシア人である可能性が高い事を推理しました。
「名探偵ね」
「おほめいただき光栄です」
「だから…ユリウスがロシアへ行った可能性が高い…と仰ったのね」
「ええ」
「その…ドミートリィ・ミハイロフという人については…何かわからないのかしら?」
その質問にダーヴィトが首を横に振った。
「それは―、わかりませんでした。一応1900年頃にミハイロフという人物がかかわった事件などがなかったか街の図書館で当時の新聞を閲覧させてもらいましたが、…もし何か事件があったとしても…遠く異国の地で報道される程のものではなかったのでしょう」
「そうね」
マリア・バルバラも残念そうにフゥッとため息をついた。
「一体…彼が、本当は何という名前の、ロシアではどういう育ちの方で…どんなお家で育ったのか…。広大なロシアのどの辺に住んでいるのか…」
「それを知って…どうするのですか?よしんばそれを知ったところで、恐らくもう彼女は…帰って来ないのに」
ダーヴィトはマリア・バルバラが家を、故郷を、国を捨てて出て行った妹の伴侶となっているであろう男の身の上を知りたがっていることに、ほんの少しのおかしみを感じ、小さく笑って彼女に訊ねた。
「だって…。いつか、あの子と再会する日が来るかもしれない…。その時にはあの子の伴侶となっている、その…クラウス?、彼にもご挨拶をしなきゃいけないから。ならば少しでもその方の事を知っておいた方がいいと思ったのよ」
大真面目に答えたマリア・バルバラのその生真面目さが、実直さが、ダーヴィトはとても好きだった。
「それもそうですね。笑ったりしてすみませんでした。あなたはとても誠実な人間だ」
― 僕も、あなたのような人間になりたい。
ダーヴィトの素直な謝罪と称賛の言葉を、マリア・バルバラは柔らかな笑顔で受けとめた。
「はい?何でしょう」
「あなたの親友だった…その、クラウスという青年について教えて頂けないかしら?」
とある週末の午後―。
マリア・バルバラは失踪した弟(実のところは妹なのだが)の抱えていた秘密を教えて貰って以来、何かと相談相手になってもらっていたダーヴィト・ラッセンを遅めの昼食に招き、その後彼が持参したチェロの音に耳を傾けていた。
サロンでダーヴィトがマリア・バルバラに披露していたのは、バッハの「無伴奏チェロ・ソナタ」だった。
その演奏は、殊更に感情を表に出すことのない抑制の効いた演奏で、それがマリア・バルバラには心地が良かった。
妹の先輩だったという聖セバスチャンの生徒のチェロに耳を傾けながら午後のお茶を頂く。
演奏が終わり、ダーヴィトがそっと弓を下すと、マリア・バルバラが拍手を贈った。
「素敵だわ。チェロの演奏を…こんなにじっくり聴いた事は初めてだったのだけど…深みがあって味わいのあるいい音ね」
「ありがとうございます。チェロは…ヴァイオリンのような華はないかもしれませんが、そのかわりヴァイオリンにはない深みがあります。…どことなく、チェロの音色はあなたのようだと思いませんか?」
「どうせ私には…華がありませんわ。― さぁ、召し上がれ」
マリア・バルバラが少し拗ねて見せて、お茶をカップに注いでダーヴィトに勧めた。
「これは失礼いたしました。…でも僕は―、このチェロという楽器の深みと揺るぎなさを、こよなく愛しているのです」
ダーヴィトのその言葉にマリア・バルバラが少女のように僅かに顔を赤らめ、きまり悪そうにふいとそっぽを向いた。
厳格だけどその一方で、少女のような純粋さも失わない、そのアンバランスが可愛らしい女性だ…とダーヴィトは思った。
「フフ…」
「何がおかしいの?」
「いえ、何でもありません。…いつもながら美味しいお茶ですね」
「そう…」
二人の間に、薫り高い紅茶の芳香に包まれた、ゆったりとした午後の時間が流れる。
~~~~~~~~~
「そう、クラウスの話でしたね」
「ええ」
「クラウスは…、ヴァイオリン科でトップの腕を持つ生徒で、その才能と技術はうちの学校のヴァイオリン科の中ではず抜けていました。才能という点でいえば、あのイザークに匹敵するものであったと思います。学内演奏会でイザークと組んで演奏していた、あの生徒ですよ」
「ああ。― あの、背の高い?」
「そうです」
「妹は、ユリウスは―、なかなか面食いね」
「はは…。確かに。でも、やつは男女問わず誰からも好かれる人間でしたから…、彼女が普段近しく接しているうちに、やつに惹かれたのは必然だったのかもしれませんね」
「そう…。そんなに魅力的な人だったのね」
「ええ」
「彼は…ロシア人だった…のではないか、とあなた初めて会った時に仰ったわね」
「ええ。分かりやすい所では…言葉のごくわずかなイントネーションや言い回し…。それと、演奏スタイル…かな。やつは確かに上手かったし曲の解釈や洞察力も深かったが…、あの独特の…僅かに覗く節回しや音色は…、何と言うか上手くは言えないのだけど、生粋のドイツの文化で生まれ育った人間とは僅かに異なるものがあるように感じてはいました。決定的だったのは…、寄宿舎の奴の部屋に飾られていた写真ですね」
「写真?」
「ええ。やつの婚約者としてよく学内演奏会などの学校行事に顔を見せていたアルラウネ・フォン・エーゲノルフ嬢という女性がいたのです。その彼女と仲良さげに肩を抱いて写っている奴によく似た、だけど奴ではない黒髪の男性の写真が寄宿舎の部屋に飾られていました」
「それで?」
「気になるでしょう?やつの婚約者と仲睦まじげに写っているやつにそっくりな男性の写真なんて。…だから、やつと一緒に飲んで、あいつが先に寝入ったすきに、写真立てから写真を外して見てしまいました」
「まあ!」
「そうしたら写真の裏に…1900年ドミートリィ・ミハイロフ21才 アルラウネ・フォン・エーゲノルフ17才 と書かれていました」
―だから、その男性は恐らく奴の兄か従兄弟か…血縁関係にある者若しくはあった者で、クラウスもまた恐らく姓はミハイロフである可能性が高い事、それからその姓からロシア人である可能性が高い事を推理しました。
「名探偵ね」
「おほめいただき光栄です」
「だから…ユリウスがロシアへ行った可能性が高い…と仰ったのね」
「ええ」
「その…ドミートリィ・ミハイロフという人については…何かわからないのかしら?」
その質問にダーヴィトが首を横に振った。
「それは―、わかりませんでした。一応1900年頃にミハイロフという人物がかかわった事件などがなかったか街の図書館で当時の新聞を閲覧させてもらいましたが、…もし何か事件があったとしても…遠く異国の地で報道される程のものではなかったのでしょう」
「そうね」
マリア・バルバラも残念そうにフゥッとため息をついた。
「一体…彼が、本当は何という名前の、ロシアではどういう育ちの方で…どんなお家で育ったのか…。広大なロシアのどの辺に住んでいるのか…」
「それを知って…どうするのですか?よしんばそれを知ったところで、恐らくもう彼女は…帰って来ないのに」
ダーヴィトはマリア・バルバラが家を、故郷を、国を捨てて出て行った妹の伴侶となっているであろう男の身の上を知りたがっていることに、ほんの少しのおかしみを感じ、小さく笑って彼女に訊ねた。
「だって…。いつか、あの子と再会する日が来るかもしれない…。その時にはあの子の伴侶となっている、その…クラウス?、彼にもご挨拶をしなきゃいけないから。ならば少しでもその方の事を知っておいた方がいいと思ったのよ」
大真面目に答えたマリア・バルバラのその生真面目さが、実直さが、ダーヴィトはとても好きだった。
「それもそうですね。笑ったりしてすみませんでした。あなたはとても誠実な人間だ」
― 僕も、あなたのような人間になりたい。
ダーヴィトの素直な謝罪と称賛の言葉を、マリア・バルバラは柔らかな笑顔で受けとめた。
作品名:第二部 2(75)近づいてゆく距離 作家名:orangelatte