第二部 3(76)刑事
「こんにちは、執事さん」
「あ、これは。ダーヴィト様」
ダーヴィトはあの週末から日をおかず、結局再びアーレンスマイヤ家を訪れた。
先週末の出来事を、ゼバスの裏庭で人目を避けるように会っていた校長と、あの下男、ヤーコプといったかー、の事を一応耳に入れておいた方がいいと思ったからだった。
アーレンスマイヤ家を訪れると、生憎マリア・バルバラは急な来客があり応対中だと申し訳なさそうに執事が告げた。
自分も急な来訪だからと恐縮する執事に突然の来訪を詫び、エントランスで待たせてもらう事にした。
「今日はユリウスの下の姉君は?」
アーレンスマイヤ家を訪問すると、よくサロンから聞こえてくるアネロッテの嬌声と軽薄そうな取り巻きの男どもの笑い声が聞こえて来ない。
「アネロッテ様なら外出中です」
「ああ、だから馬車がなかったんだね」
「えぇ。アネロッテ様はうちも自動車に切り替えるべきだ…と馬車をお使いになるたびに仰いますが…今のアーレンスマイヤ家に…一体どこにそんな余裕があると思われているのやら…。それに、自動車に変えるとなると、今まで働いていた馭者や馬丁に暇を出さねばなりません。そうなるとアネロッテ様のお気に入りのヤーコプにも暇を出さねばならなくなるのが…アネロッテ様にはお分かりになられているのか。…簡単に仰いますが、実は馬車を自動車に変える事一つも、簡単な事ではないのです」
執事のボヤキとため息を聞くにつけ、時代の変化というものを感じずにはいられなかった。
前世紀始めに興った産業革命から早1世紀。目まぐるしく進歩する文明は世界そのものの構造を一変させた。
アーレンスマイヤ家のような旧弊とした名家が時代の進歩から取り残されていく一方、その急テンポな時代の変化の波に上手く乗った、モーリッツの家のような新興の家がどんどん栄えていく。そのうちその波紋はどんどん広がり国家レベルとなり、やがて…18世紀にフランスで起きた革命のように国そのものが根底からひっくり返るような事が、また起こり得るのだろう。社会の構造が変われば、国だけが変わらずいる事は不可能だからだ。
そしてあの産業革命から、交通、通信技術が発達して、世界はある意味どんどん狭く小さくなっている。
その変革がやがて世界全体を変えていくのだろう。
「…さん?ダーヴィトさん?」
埒もない思いにとらわれ、心ここにあらずのダーヴィトに執事が呼びかける。
「あ?すいません。何でしょうか?」
執事の呼び止めに現実に引き戻されたダーヴィトが執事に聞き返す。
「あの、マリア・バルバラ様からお聞きしました。…ユリウス様が本当はご子息ではなく…その、ご令嬢だった事を」
「ああ。そうなんだよ。…驚いた?」
「…はい、それはもう。…でも、そう言われてみれば、随分華奢でお声も高く、少年だとしても、随分繊細な美貌だとは感じておりましたが」
ー 普通にお嬢様として育っていれば、さぞかしお美しいお嬢様でいらっしゃいましたでしょうに…。お気の毒な事です。
「ユリウスは…性を偽っていても、十分美しくて、それはキュートな女性だったよ。…そう思いませんか?」
ユリウスの辿って来た15年を思いやり、心を痛めているこの優しい執事を、少しおどけた口調で元気付ける。
「…そうでございますね。確かに、人の目を惹きつけて離さない魅力をお持ちでいらっしゃいました」
「でしょう?僕も、そしてイザークも、彼女にイチコロでしたからね。それに、マリア・バルバラさんからその続きも聞きましたか?」
「はい…。その、お心を寄せられた上級生の方と、その…」
「えぇ。早い話が駆け落ちです。時代が変わって来ているとはいえ、まだまだ自分の意志で人生を掴み取る自由があるとは言い難い女性の身で、愛し合った男性と結ばれる最高の選択肢を掴み取ったのです。そう考えれば、ユリウスの15年は、十分報われたと、そう思いませんか?」
ー きっと彼女は、今頃ありのままの自分を受け入れてくれた最愛の男性と幸せでいると思いますよ?
「…そうでしょうか?」
「ええ。そうです」
「ダーヴィト様」
「何でしょう?」
「マリア・バルバラお嬢様の事を…よろしくお願いします。あの方は、とても聡明で責任感も強く、この家の一切を切り回す才覚をお持ちでいらっしゃいますが…、とはいえ、やはりあの方とて、女性でいらっしゃいます。たまには荷を下ろして寄りかかる存在が必要でございます。…失礼ながら、あなた様はお年はお若いながらも、とても物事が、世の中がお分かりになるような方にお見受け致しましたもので…。あなた様と交流するようになられてからマリア・バルバラ様が、それは柔らかな表情をされるようになって来たので…つい、差し出た事を申しましたが…、ご迷惑でしたでしょうか?…その、マリア・バルバラ様はあなた様よりも、だいぶ歳も上でございますから…」
ー これからもマリア・バルバラ様のお味方になって頂けると、私めもとても安心でございます。あの方は孤軍奮闘してこの家をお守りになられておりますので。
「僕をナイト役に任じて下さるとは、光栄至極です。てっきり…、いやしくもアーレンスマイア家の令嬢の元に、貴族でもない若い男が足繁く通うなんて外聞が悪いから、控えてほしい…といつ言われるか、実は気が気でなかったのですよ」
「あなた様は、そういう男性では、アネロッテ様が周りに侍らせているような類の男性ではないという事ぐらい、私には分かりますので。お若いけれど、愛の喜びも愛の苦しみも味わってきている…そんな気が致します」
随分と自分の事を買ってくれている(寧ろ買いかぶり過ぎというべきか)ようで、少し面映ゆかったが、愛の喜びも愛の苦しみも という点では、執事という人間の、人を見る確かさに正直舌を巻いた。
「ちょっと買いかぶり過ぎな気もしなくもないですが、愛の喜びと苦しみという点に於いては、僕は自分の倍生きてきた人間よりも、よほど知り尽くしている自負はあります。さすが、人を見る目は確かですね」
「こちらこそ、人を見る目の確かさを褒められるとは…執事冥利に尽きます。褒められついでに…もう一つ。宜しいでしょうか?」
そこまで言うと、その執事は柔和な表情を引き締めて、低い声でダーヴィトに耳打ちした。
「アネロッテ様に、くれぐれもお気をつけ下さいませ。…私は正直、彼女が恐ろしい。現に…最近足繁く当家に、マリア・バルバラ様の元へ顔を見せるあなたを、早速アネロッテ様はヤーコプに監視させている。彼女はある時期から、突然お変わりになられた。私には彼女が、彼女の財産に対する執着が、何か恐ろしい事をもたらすような気がして、ならないのです。せめて、孤軍奮闘しておられるマリア・バルバラ様の傍で目を光らせ、守ってくれる存在があれば…とずっと思っておりました。もしかしたら当家に関わる事で、今後あなた様にも累が及ぶ可能性も考えられなくもなく、それを思うと誠に図々しいお願いである事は重々承知の上ですが。どうかどうか…マリア・バルバラ様の力になってあげて頂きたく、よろしくお願いします」
執事は声を落して早口でダーヴィトにそう告げると、軽く頭を下げた。
「あ、これは。ダーヴィト様」
ダーヴィトはあの週末から日をおかず、結局再びアーレンスマイヤ家を訪れた。
先週末の出来事を、ゼバスの裏庭で人目を避けるように会っていた校長と、あの下男、ヤーコプといったかー、の事を一応耳に入れておいた方がいいと思ったからだった。
アーレンスマイヤ家を訪れると、生憎マリア・バルバラは急な来客があり応対中だと申し訳なさそうに執事が告げた。
自分も急な来訪だからと恐縮する執事に突然の来訪を詫び、エントランスで待たせてもらう事にした。
「今日はユリウスの下の姉君は?」
アーレンスマイヤ家を訪問すると、よくサロンから聞こえてくるアネロッテの嬌声と軽薄そうな取り巻きの男どもの笑い声が聞こえて来ない。
「アネロッテ様なら外出中です」
「ああ、だから馬車がなかったんだね」
「えぇ。アネロッテ様はうちも自動車に切り替えるべきだ…と馬車をお使いになるたびに仰いますが…今のアーレンスマイヤ家に…一体どこにそんな余裕があると思われているのやら…。それに、自動車に変えるとなると、今まで働いていた馭者や馬丁に暇を出さねばなりません。そうなるとアネロッテ様のお気に入りのヤーコプにも暇を出さねばならなくなるのが…アネロッテ様にはお分かりになられているのか。…簡単に仰いますが、実は馬車を自動車に変える事一つも、簡単な事ではないのです」
執事のボヤキとため息を聞くにつけ、時代の変化というものを感じずにはいられなかった。
前世紀始めに興った産業革命から早1世紀。目まぐるしく進歩する文明は世界そのものの構造を一変させた。
アーレンスマイヤ家のような旧弊とした名家が時代の進歩から取り残されていく一方、その急テンポな時代の変化の波に上手く乗った、モーリッツの家のような新興の家がどんどん栄えていく。そのうちその波紋はどんどん広がり国家レベルとなり、やがて…18世紀にフランスで起きた革命のように国そのものが根底からひっくり返るような事が、また起こり得るのだろう。社会の構造が変われば、国だけが変わらずいる事は不可能だからだ。
そしてあの産業革命から、交通、通信技術が発達して、世界はある意味どんどん狭く小さくなっている。
その変革がやがて世界全体を変えていくのだろう。
「…さん?ダーヴィトさん?」
埒もない思いにとらわれ、心ここにあらずのダーヴィトに執事が呼びかける。
「あ?すいません。何でしょうか?」
執事の呼び止めに現実に引き戻されたダーヴィトが執事に聞き返す。
「あの、マリア・バルバラ様からお聞きしました。…ユリウス様が本当はご子息ではなく…その、ご令嬢だった事を」
「ああ。そうなんだよ。…驚いた?」
「…はい、それはもう。…でも、そう言われてみれば、随分華奢でお声も高く、少年だとしても、随分繊細な美貌だとは感じておりましたが」
ー 普通にお嬢様として育っていれば、さぞかしお美しいお嬢様でいらっしゃいましたでしょうに…。お気の毒な事です。
「ユリウスは…性を偽っていても、十分美しくて、それはキュートな女性だったよ。…そう思いませんか?」
ユリウスの辿って来た15年を思いやり、心を痛めているこの優しい執事を、少しおどけた口調で元気付ける。
「…そうでございますね。確かに、人の目を惹きつけて離さない魅力をお持ちでいらっしゃいました」
「でしょう?僕も、そしてイザークも、彼女にイチコロでしたからね。それに、マリア・バルバラさんからその続きも聞きましたか?」
「はい…。その、お心を寄せられた上級生の方と、その…」
「えぇ。早い話が駆け落ちです。時代が変わって来ているとはいえ、まだまだ自分の意志で人生を掴み取る自由があるとは言い難い女性の身で、愛し合った男性と結ばれる最高の選択肢を掴み取ったのです。そう考えれば、ユリウスの15年は、十分報われたと、そう思いませんか?」
ー きっと彼女は、今頃ありのままの自分を受け入れてくれた最愛の男性と幸せでいると思いますよ?
「…そうでしょうか?」
「ええ。そうです」
「ダーヴィト様」
「何でしょう?」
「マリア・バルバラお嬢様の事を…よろしくお願いします。あの方は、とても聡明で責任感も強く、この家の一切を切り回す才覚をお持ちでいらっしゃいますが…、とはいえ、やはりあの方とて、女性でいらっしゃいます。たまには荷を下ろして寄りかかる存在が必要でございます。…失礼ながら、あなた様はお年はお若いながらも、とても物事が、世の中がお分かりになるような方にお見受け致しましたもので…。あなた様と交流するようになられてからマリア・バルバラ様が、それは柔らかな表情をされるようになって来たので…つい、差し出た事を申しましたが…、ご迷惑でしたでしょうか?…その、マリア・バルバラ様はあなた様よりも、だいぶ歳も上でございますから…」
ー これからもマリア・バルバラ様のお味方になって頂けると、私めもとても安心でございます。あの方は孤軍奮闘してこの家をお守りになられておりますので。
「僕をナイト役に任じて下さるとは、光栄至極です。てっきり…、いやしくもアーレンスマイア家の令嬢の元に、貴族でもない若い男が足繁く通うなんて外聞が悪いから、控えてほしい…といつ言われるか、実は気が気でなかったのですよ」
「あなた様は、そういう男性では、アネロッテ様が周りに侍らせているような類の男性ではないという事ぐらい、私には分かりますので。お若いけれど、愛の喜びも愛の苦しみも味わってきている…そんな気が致します」
随分と自分の事を買ってくれている(寧ろ買いかぶり過ぎというべきか)ようで、少し面映ゆかったが、愛の喜びも愛の苦しみも という点では、執事という人間の、人を見る確かさに正直舌を巻いた。
「ちょっと買いかぶり過ぎな気もしなくもないですが、愛の喜びと苦しみという点に於いては、僕は自分の倍生きてきた人間よりも、よほど知り尽くしている自負はあります。さすが、人を見る目は確かですね」
「こちらこそ、人を見る目の確かさを褒められるとは…執事冥利に尽きます。褒められついでに…もう一つ。宜しいでしょうか?」
そこまで言うと、その執事は柔和な表情を引き締めて、低い声でダーヴィトに耳打ちした。
「アネロッテ様に、くれぐれもお気をつけ下さいませ。…私は正直、彼女が恐ろしい。現に…最近足繁く当家に、マリア・バルバラ様の元へ顔を見せるあなたを、早速アネロッテ様はヤーコプに監視させている。彼女はある時期から、突然お変わりになられた。私には彼女が、彼女の財産に対する執着が、何か恐ろしい事をもたらすような気がして、ならないのです。せめて、孤軍奮闘しておられるマリア・バルバラ様の傍で目を光らせ、守ってくれる存在があれば…とずっと思っておりました。もしかしたら当家に関わる事で、今後あなた様にも累が及ぶ可能性も考えられなくもなく、それを思うと誠に図々しいお願いである事は重々承知の上ですが。どうかどうか…マリア・バルバラ様の力になってあげて頂きたく、よろしくお願いします」
執事は声を落して早口でダーヴィトにそう告げると、軽く頭を下げた。
作品名:第二部 3(76)刑事 作家名:orangelatte