第二部 3(76)刑事
intermezzo マリア・バルバラの戸惑い
午前零時をとうに回ったアーレンスマイア邸。
マリア・バルバラは1日の日課を終え、風呂を使うとベッドルームの脇のドレッサーで就寝の仕度をしていた。
マリア・バルバラは自分の身支度を人の手を借りて行う事を好まない。
同じ姉妹でも身支度の一切の仕度を召使いにやらせ、自分はああしろこうしろと文句と命令するために口しか動かさず、まさに縦のものを横にしないアネロッテとは対照的に、よほどのことがない限り、身支度の場に人がいられる事をマリア・バルバラは好まなかった。
着替えも化粧も髪を結うのも、誰の手も借りず、静かに鏡の中の自分と対話しながら行う事を若い時分から日課としていた。
(尤も彼女は華やかなパーティや音楽会といったお洒落をしなければならない場へは殆ど顔を出す事がなかったから、それで十分事足りたのであるが)
ナイトガウンを羽織り、いつも通り何気なくドレッサーの前に掛けたマリア・バルバラは鏡に映った自分の姿に思わず目を見開いた。
ー これ、私?
思わず我が目を疑う程に、鏡に映ったその女は、美しかったからだ。
元々マリア・バルバラは不器量な女性では決してない。
寧ろゲルマン民族らしい整った顔立ちに艶やかで豊かな黒髪、知性を帯びた黒い瞳、そしてやや女性らしいふくよかさにはかけるものの、ほっそりとした長身。
不器量どころかマリア、バルバラは美形の部類に入る女性とも言えた。
しかし、下の妹のアネロッテが所謂男好きする華やかな美貌で幼い頃から何かと比較されて育った為に、自分が不器量であるという誤った刷り込みが出来てしまい、以来それを弁えて、「まるで修道女か未亡人みたい」と妹をして言わしめる程に、身を飾る事を遠ざけて来た。
加えて彼女は多感な少女期に実らない初恋をした。そういった様々な要因が彼女を異性に対してやや頑なにしたのだろう。
更に彼女が適齢期に差し掛かった頃に母親が他界し、その頃からアーレンスマイア家の事業も急激に傾き始めた。
本来娘の縁談に心を砕くべく女親の不在に加えて、傾いた家の諸事に奔走しているうちに彼女は婚期を逃してしまった。
気がつくとレーゲンスブルグの彼女と同年代だった男性も女性も皆結婚してしまい、いつしか彼女に縁談を持って来る人間は誰もいなくなっていた。
自分のような冴えない人間とアネロッテのような華やかな美しさを比較し、あからさまに態度を変える男性という生き物にマリア・バルバラは正直苦手意識があったので、それならばそれで構わないと思っていたが、事ある毎に「ハイミス」「行き遅れ」と言われるのはやはりいい気持ちがしなかった。
そういう周りの声が益々彼女を頑なにした。
いつの間にか彼女を相手にする男性はいなくなっていた。
結局、彼女はこの歳まで結婚はおろか、男性と接することすら殆どなく、まさしく修道女のような人生を送って来てしまった。
このまま自分は一生誰に愛されることもなく、誰のキスも抱擁も受けずに一生を終えるのだろう。
マリア・バルバラはそんな風にどこか自分の人生に、投げやりになっていた。
三十路を間近にしてそんな思いを抱き始めた時に現れたのが、失踪した妹の先輩だったという、音楽学校の生徒だった。
失踪したユリウスのどんな事でもいいから手がかりが欲しい とイザークに頼み込んで紹介されたこの青年ー、ダーヴィト・ラッセンは、ユリウスよりも三年先輩のゼバスのヴァイオリン科の最終学年に在籍しており、実家はミュンヘンで手広く事業をやっている裕福な家庭の末っ子の長男坊との事だった。
恵まれた家庭で育った者特有の落ち着いた物腰と、年よりもかなり老成した物の考え方、知性、そして年齢にそぐわない包容力。このマリア・バルバラよりも10年若の青年は、彼女が今まで会ったどの男性とも違っていた。
彼女を冴えない地味な女としてでも、行き遅れのハイミスでもなく、一人の人間
として対等に接し、弟だと思っていたユリウスが実は女性だったという事を教えてくれたのも彼だった。
自分の知らなかった妹の事や妹の伴侶の事などを聞かせてもらううちに、自然と距離が縮まっていた。
だけど、これはあくまで取り残された者同士がお互いに傷を癒し合っている…そういった感情に過ぎないと思っていた。
ましてや、落ち着いているとはいえ相手はまだ二十歳前の若者である。
まさか自分のような三十路近くのハイミスなど女として見てはいまいー。
そう思っていた。
だから、彼女もある意味気楽な気持ちで、殊更構える事なく彼に接する事が出来たのだったが…。
いつものように玄関で彼を見送った時に不意に額に受けた口づけ。
彼がそっと自分の両肩を抱いた時に見せた僅かな戸惑い。
最後に自分に優しく触れてくれたのは…もう他界して十年近くになった実母だったか。
自分の身体に優しく触れられる心地の良さを、マリアはもう何年も忘れていた。
今日不意に蘇ったあの心を柔らかな羽根で撫でられるような優しさは、マリアの中で今まで奥底に封じ込められていた何かを揺り起こし解放した。
マリア・バルバラは鏡の中の自分にそっと手を伸ばし、もう一度しげしげと自分の姿を眺める。
いつもきっちりと結い上げられた漆黒の長い髪は濡れたような艶を放ち背中を豊かに覆っている。
白い肌は以前よりも艶を帯び、奥底から輝きを帯びているようにさえ見える。
そして何よりも、以前はやや険しい印象だった黒い瞳は、僅かに潤み、柔らかな表情を湛え、なんとも言えない女性らしい嫋やかさをかもしていた。
白い夜着とほっそりとした長身も相まって、どこか隣国の美しい皇后を想わせなくもなかった。
今日の夕方の、ロマンスというには慎まし過ぎるぐらいのほんの小さなその出来事が、彼女の内面に押し込められていた、美を後押しした。
花は自分が花である事を自覚した。
まるで昨日の自分とは全く違う様相を帯びている自分に、マリアは戸惑ったが、でもそれは決して嫌ではなかった。
ー 明日は、少し明るい色のドレスを着てみよう。
マリアは満足気に細い指先で鏡の自分をそっと撫でると、ベッドに潜り込んだ。
作品名:第二部 3(76)刑事 作家名:orangelatte