初次的上海的夜
飲茶の準備も整え、お互いが席に着いた所で、遅い夕食が始まった。
暫くは黙々と手と口だけを動かしていた二人だが、それにどうにも居た堪れなくなった葵が口を開いた。
「そういやアンタ、士官学校へ行っていたんだって?やはり軍人の家系なのかい?」
しかしそれに返事はなく、相棒氏は黙ったまま食事を続けている。
葵は肩を竦め、溜息を一つ零すと相棒氏から視線を外した。すると、テーブル脇のキャビネットが目に入る。葵は何気ない風を装って口を開いた。
「琢磨……実にアンタらしい名前だな」
その言葉に、それまでこちらには完全に無関心であった相棒氏の端整な眉がぴくりと動いた。
「……何処で其れを……?」
射る様な視線と共に発せられた敵意の滲んだ声に驚きながらも、葵は努めて明るく振舞う。
「荷を片付けていた時に廊下で見付けたんだ。きっとアンタの落し物だろうと思ってさ」
言いながら立ち上がった葵は、キャビネットの引出しから一通の封筒を取り出す。
「昼間にうっかり渡し忘れてね。おっと……勿論、拾っただけで中は見ていないぜ」
にこりと笑って封筒を差し出すと、相棒氏は値踏みする様な目を向けた後、「それは悪かったな」と言って封筒を受け取った。
「それにしても、いい名前じゃないか。“名は体を表す”とはまさにこの事だな」
軽い調子で葵が言うと、相棒氏は厭わし気に言う。
「……もう捨てた名だ」
「捨てざるを得なかった、だろ?」
葵がそう言うと、相棒氏は眉を顰め、微妙な表情で黙り込む。
「まぁ、過去を詮索されたく無いのは、俺だって同じ様なものさ。それに、俺が必要としているのは“過去のアンタ”じゃなくて“今のアンタ”だ。今の話は一切忘れる。だからこれから宜しくやろうぜ、葛」
そう言って葵は笑顔で手を差し出したが、その手が握られる事は無かった。
その代わり、聴こえるかどうかという程の微かな「そうだな」と呟きが返ってきた。