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透野サツキ
透野サツキ
novelistID. 61512
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ヨアケノイロ

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早朝、設定した時刻通りにボクのスリープモードは解除される。瞼を開くと、薄暗い部屋の中、目の前で春歌が静かな寝息を立てている。
 ここは彼女の寝室で、ボクらは彼女の体温で温まった一枚の布団にくるまっている。
 本来、ボクの体はヒトの様に定期的な睡眠を必要としない。けれどこんな風に、同じベッドの上で寄り添って眠っている彼女の、気持ち良さそうな寝顔を見ていると、ほんの何分の一でもいいから、その気分を味わってみたくなって、時々その真似事をする。
 もっとも、夢を見る事がないボクは「眠る」と言う事を正確に体感することは出来ていないかもしれない。眠りに落ちる瞬間と、起動する瞬間は、単に連続して繋がっているだけだ。それでもその両方に、こうして彼女がすぐ側にいて、息遣いや温もりを感じられるのは、とても心地良い事に思えた。
 ボクは彼女の顔にかかった髪を指ではらって、頬に軽くキスをする。
 愛おしい彼女の寝顔をしばらく見つめた後、体を起こして、ベッドから離れようとした時にそれは起こった。
「藍くん…っ」
 突然名前を呼ばれたかと思うと、後ろから強い力で抱きすくめられた。意外な彼女の行動に、ボクは少なからず動揺する。けれどそれ以上に、背中から伝わってくる彼女の鼓動は通常よりもずっと速くて。
「春歌?」
 名前を呼ぶと、春歌は背中に押し付けていた顔を上げて、大きな目を瞬かせた。
「あ…ご、ごめんなさいっ!」
 ようやく我に返った春歌は、慌てて身体を離す。
 ひどく混乱している様子の彼女の頭に、ボクは軽く手を乗せて、やわらかい髪を撫でる。
「別に謝る必要はないけど。どうしたの? もしかして、怖い夢でも見た?」
 ボクが微笑んでみせると、春歌はうつむいたまま、小さく答えた。
「…はい…その、少しだけ」
 それが控えめな表現だと言う事は、彼女の様子を見れば明らかだった。何かに怯える様に表情は固く、額にうっすらと汗を浮かべていた。
「落ち着いて。どんな夢だったの?」
 きつくシーツを掴んでいる春歌の手に、ボクは自分の手をそっと重ねる。すると強張っていた彼女の手から、力が抜けていくのが分かった。
「…笑わない…ですか?」
「それは内容次第だけど。聞かせて?」
 くすりと笑ってボクが言うと、春歌は躊躇しながらも、少し震えた声で話し出した。
「…何故かはよく分からないんですけど、ただ先輩が、どこか遠くに行ってしまいそうになったんです。それでとても怖くなって…」
 その説明でボクは、いつもと違う彼女の行動の原因をようやく理解した。
 夢と言うモノを見ないボクには想像する事しかできないけれど、おそらく春歌はボクが起き上がってベッドから離れようとしたほんのわずかな時間に、その夢を見たのだろう。
 無論、ボクが彼女を置いてどこかへ消えるなんて、そんな事はあり得ない。そう言いたいけれど、彼女には一度、それに限りなく近い思いを味わわせてしまっているから、あまり説得力はない。
 それでもボクは春歌の手を取ると、手の甲にそっとキスをする。
「不安にさせてゴメン」
 そう言ってボクは、彼女の目を真っ直ぐに見つめる。
「だけど、ボクはもう二度とキミを一人にはしない。信じて?」
「先輩…」
 春歌は、しばらくボクの目を見つめ、それから首を縦に振った。
 ボクは春歌に口づけて、彼女の小さな体をそっと抱き寄せる。
「夜明けの空をね、ふと見たくなったんだ。もちろん、キミと一緒に見たいとも思ったけど、あんまり気持ち良さそうに眠ってたから、起こしていいのか、迷ったんだ」
 春歌は、ほっと息を吐いて、
「そうだったんですね…ごめんなさい、驚かせてしまって」
「いいよ。目も覚めたみたいだし、せっかくだから一緒に見に行こう」
 はい、と彼女がうなずくのを確認して、ボクは彼女から身体を離す。寝間着姿の彼女に上着を着せて、隣のリビングからベランダに出ると、冷たい空気が肌に触れた。
「寒くない?」
「はい大丈夫…あ」
 手すりに寄りかかる彼女の小さな身体を、ボクは後ろから抱きしめて包み込む。
「どう?」
「…あったかいです」
 春歌はそう言って笑うと、身体をボクに預ける。
 彼女が心地よいと思う温度に調節しているこの温度を、彼女は温もりとして認識してくれている。そして、ボクもまた、彼女が身体から発している体温を心地よく感じた。
 空はまだ暗くて、白く浮かぶ月の光がボクらを照らしている。ボクはナツキに教わった春の星座を、指差して彼女に教えた。暗くて肉眼では見えにくい星もあるけど、春歌は一緒に空を見上げながら、ボクの話に興味深く耳を傾けてくれる。天体としての星の話から、遠い昔に作られた神話の中の、星になった英雄や、神々の奔放な恋の話。
「ああ、それから、これは知っている? 夏の星座だけど、琴座にまつわる有名な神話で…」
 琴の名手オルフェウスと、その妻エウリディケ。愛し合った二人の物語をボクは聞かせる。
 毒蛇に噛まれて命を落としたエウリディケを蘇らせるために、冥界へ向かったオルフェウス。地上に戻るまで一度も振り向いてはいけないと言う冥王との誓いを破ってしまい、再び引き裂かれると言う結末。それを聞いて春歌はひどく哀しそうな顔をした。
「オルフェウスは、どうして振り向いてしまったんでしょう?」
「それは定かじゃないんだ。地上の光が見えた喜びで、とも言われるし、本当に彼女が後ろにいるかどうか不安に駆られたから、とも言われてる」
「そんな…」
「前者だったら随分間が抜けてるなと思うけど、後者だったらボクにも分からなくもないかな」
「え…」
 春歌は不意に顔を上げて、
「先輩でも不安になったりするんですか?」
「…うん、時にはね」
 ボクが正直に答えると、春歌は驚いた様に目を丸くしてボクを見る。
「そんなに意外かな」
「だって…いつも落ち着いて見えますし」
「基本的にはそうだけど、君のコトは別」
 ボクは春歌の髪を撫でながら、苦笑する。
「君が可愛いから、不安になるし、一人占めしたくなるし、本当に自分が君の相手として相応しいのか、疑問に思う事だってある」
 アイドルと作曲家というだけならまだしも、ボクの体は春歌とまったく違うモノで出来ている。そこに何の引け目も感じない程、単純な構造には出来ていない。
「だけどね、そんな時は、君を抱きしめてキスをする。そうして君と一緒にいたいと思う自分の気持ちを確かめるんだ」
 いつからかボクの中に宿った、心と言うモノ、もしくはそれに似た何か。それはひどく複雑で、ボクのこの身体に強い負荷を与えた。一度は機能を停止させるところにまで陥ったけど、それでも消える事はなかった。手放したくなかったんだと思う。君が与えてくれた、たくさんのモノ。そして。
「ね、今、キスしてもいい?」
「え…」
 彼女が答えるよりも早く、ボクはその頬に手を伸ばす。最初は触れるだけのキス。それから少し、長めのキスを交わす。
「そう言えば、覚えてる?」
 ゆっくりと目を開けた春歌は、少し潤んだ瞳でボクを見上げる
「約束したでしょ。二人の時は名前で呼んでって言ったよね?」
「あ…」
「忘れたなんて言わせないけど」
作品名:ヨアケノイロ 作家名:透野サツキ