W/I/M
最初は、謙也から借りたものを抽斗の奥に仕舞い込んで、失くしてしまったと嘘をついた。謙也は少しだけ驚いてみせたが、すぐにあの人好きのする笑みを浮かべて、「気にせんでええって、別にそない大事なもんやないし」と言っただけだった。それが蔵ノ介の引鉄をひいた。どこまで許されるのかその限界が知りたくなった。流石に部屋を荒らすまでのことはしていないが、この先しないとは断言出来ない。きっと謙也は空想通りに動いてくれるだろう。そしてまた鬱屈が掻き立てられる。
蔵ノ介はいつも相反の境界でくるくるまわっている。矛盾ばかりだ。ゆるされない限界を求めながらその実、かれにゆるされないことがどうしようもなくこわい。瞼を閉じれば真っ先に浮かぶほどかれの笑顔がすきなのに、それがくずれるところが見たくて仕方ない。抱き締められると不安になるのに、かれの腕なくして蔵ノ介の安寧はない。自らを崖に追いやりながら、虚空へ足を踏み出す勇気を持たない。こんなに重苦しい愛をぶつけておいて、受け止められると泣きたくなる。そして矛盾からうまれる軋みを全て謙也のせいにしてしまっている。本当はそうでないと解っているのに。
散乱した筆記具をスタンドに戻すうち、蔵ノ介はふと、自分が今何となしに拾い上げたものが鋏であることに気がついた。顔の高さまで持ち上げて何の変哲もないそれを眺め回す。蔵ノ介は鋏をひらくと、片方の刃の先を、左腕の包帯と膚の間に差し込んだ。部活でほどけるようなことがあってはいけないから、包帯は結構きつく巻いてある。ない隙間に無理矢理捻じ込むと、ぴりっとした痛みが走った。小さな切り傷には構わず、蔵ノ介はざくざくと包帯を切っていく。やがて最後の一端を切ってしまうと、包帯は蔵ノ介の腕から滑り落ちた。普段は隠した左腕が剥き出しになる。そこには無数の傷跡がある。大小新古様々だが、どれも大して深いものではない。手首の周辺にも傷はなかった。自分で刃をひいているくせに、テニスが出来なくなることを恐れて、血が薄く滲む低度のものしかつけられないのだ。しかし数が数だから、一見すれば蔵ノ介の生身の左腕は、ちょっとしたグロテスクなのだった。
これをいつか謙也がみつけてくれないだろうか、と蔵ノ介は思っている。そのために刻んできた傷だ。こちらから見せつけるようではだめなのだ。蔵ノ介の意思と関わりなく、謙也がみつけてくれなければいけない。謙也があばいてその眼光の下に晒してくれなければ。きっと謙也は泣いてくれるだろうけど、蔵ノ介が欲しいのはそれではない。蔵ノ介がぶつかっていくのと同じだけ、謙也からぶつかってきてほしいだけ。ねえ謙也、俺を怒ってよ。もう二度とこんなことしないでって言って、それから俺の正面に跪いて、この腕に口づけてよ。
蔵ノ介はちょん切れた包帯を摘まみ上げると、塵箱へばらばらと落とした。机の抽斗を開けて新しい包帯を一裂き取り出す。その奥に仕舞い込んだものに指先が触れたが、気づかなかったことにした。端を銜えて、左腕に包帯を巻きつけていく。利き手ではない右で包帯を巻くのにももう随分慣れてしまった。部活での運動程度なら緩むことはない。緩んではならない。見られてはいけない。手癖に任せて巻き続け、大体いつも巻き終わるのと同じほどで手を止めて、蔵ノ介は己の腕に、隠れきらない傷があることに気がついた。先刻包帯を切ったときに鋏でつけたあれだ。蔵ノ介は顔を歪めてもう一周、左腕に包帯を巻きつけた。かれはきっとこんな小さなサインだって、その視界に映れば見つけてくれるに違いないのだから。