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誓いのキスを

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ぎしり、ぎしり。
歩く度に軋み、鳴り、響く音。細長い四角に整えた古木を、組んで作った廊下。俺はこんな廊下を此所以外で見た事が無かった。
初めてこの廊下を歩いた時の事はまだよく覚えている。その横に広がる異国の庭園に目を奪われながら歩いていた。
隣に居た彼は、庭を見るのも良いですが、余所見し過ぎて柱に頭をぶつけたりしないで下さいね、と笑っていた。

彼の笑顔が好きだった。いつも浮かべている聖人のような微笑みとは違う、その繊細な心で感じて、素直に表した笑顔が。
艶やかな黒髪が揺れて、宵の空を思わせる眸が細められる。
その笑顔が好きで、本当に好きで、一度見たら脳の奥にまで焼き付いて離れなかった。
一人紅茶を嗜む時、街を歩いていた時、ベッドに潜り込んだ時、仕事をしている時さえ、手が離れてしまっても、互いに赤い薔薇では無いものを手向けたとしても。

再び手が取り合えた時、本当に幸せだと思ったし、もう二度とその手を離すまいと決めた。
二人して泣きながら笑って、笑いながら泣いて、言いたい事は喉で嗚咽に変わって出て来なかったけれど、それはちゃんと伝わったと思う。
けれどこれは始まりに過ぎない。決して此所でめでたしめでたしとは終われないのだ。
俺達の人生は積み木遊びによく似ている。積み上げるのは難しく、崩すのは容易い。
ただその積み木は積み木と呼べない程脆いものだ。だから崩れてしまったものをまた積み上げるのは、新しいものを積み上げるより、もっと難しい。崩れた衝撃で一度付いて傷、欠けた角はもう直らない。

俺は一つの部屋の前に立った。襖が完全に閉まっていて、その内も、俺が居る外も静まり返っていた。まばたきする音が聞こえるような気がしてくるぐらいに。
冷たい床に接している足の裏はとうに冷えていた。風呂に入ったばかりだというのに体も段々冷えてきている。俺より先に入浴した彼はどうだろう。
此所に泊まる度一番風呂を譲ってくれる彼は、今日初めてそれをしなかった。その意図に気付かなかった訳では無いけれど、不安げに揺れる黒真珠を見た時に、動かなくなった体を叱咤して、適当な理由を言って先に入るべきだったんじゃないかと思えてくる。

目を閉じてゆっくりと息を吐いた。
いつまでもこうしている訳にはいかない。そうだ。本当に彼の事を思うなら、俺はちゃんと答えなければならない。
数度深呼吸してから目を開けた。
大丈夫。俺と彼なら、きっと。襖の一つに手を掛けて、出来るだけ音を立てずに開けた。

薄暗い室内の中には布団が一組だけ敷かれていた。シーツの上には枕があるだけで、掛布団は横に畳まれている。
そして、その手前に菊が居た。白い肌襦袢だけを身に着けて、布団のある方向を向いて正座していた。
そんな格好で寒くないのだろうか。それともそんなもの感じる余裕も無いのか。

菊から目が離せないまま立ち竦んでいる俺の方を菊は向いた。真っ直ぐに俺を見た後、唇を緩く曲げる。

「そこは寒いでしょう?中に入られてはどうですか?」

俺はただ頷いて、襖を後ろ手で閉めてから菊の斜め前に座る。用意していたであろう台詞の後に俯いた菊の薄い唇から、吐息と形容するのも躊躇うぐらいの微かな息が漏れる。ちらりと俺の顔を伺った一瞬目の合った黒は不安定に揺れていた。

「こんな日ですから」

耳に痛い静寂の中でゆっくり、噛み締めるように菊が言う。

「もし宜しければ、と思いまして」

それきり菊はまた黙ってしまった。
そこで区切ったのが意図的だったのか、言葉につまってしまったのか分からない。けれど俺にはその意味が分かったし、膝の上で丸められた小さな手は震えていた。

一度欠けてしまった所はどんなに嘆いても戻らない。だから菊は怯えていた。
そんな不完全なものではまた崩れてしまうかもしれない。もしかしたら積み上げる事すら出来ないかもしれない。
これ以上壊れてしまったら。その不安が時に積み木を持つ事すら許さない。
不安だったのは俺も同じだったからよく分かる。だから今日まで菊の体に再び触れる事をしなかった。最後に笑って貰える自信が俺には無かった。

「菊」

こんなに静かで無ければ掻き消えてしまいそうな声だった。
それでも相手には聞こえたようだ。菊は俯いたまま、首を一度小さく縦に振った。それを合図に俺は手を伸ばした。

「っ!?」

声にならない声が上がる。目の前にもう黒は無い。畳に転がった枕と蠢くシーツおばけもどき。
いつまでも苦戦しているので手伝ってやる。
やっとの事で顔を出した菊はほうと溜め息を吐いた。黒髪が乱れてしまっているのが被ったシーツの上からでも分かる。

「可愛い」
「へ?」
「だから、可愛い。花嫁さんみてぇ」

肌襦袢はどう見たってドレスでは無いし、シーツには色気もへったくれも無い。同じなのは白いだけ。けれど本当にそう思った。
困ったような顔をした、けれど頬を赤く染めていた菊をそっと抱き寄せる。布越しの体温が儚くて、何度も何度もなぞって、必死になって確かめた。
腕の付け値の辺りの生地をぎゅうと握り締めた手に励まされて、もう一度、今度ははっきりした声で菊の名前を呼ぶ。

「もう一度、もう一度同盟を結ばないか?」

勿論それは国と国としてでは無いけれど。他の誰かに認めて貰えるようなものでは無いけれど。
そんなものに縋りたくなるのは俺の弱さ故かもしれない。
本当は別に同盟なんて名前にもこだわっていない。なんだって良い。ただ繋がりが欲しかった。俺と菊の意志だけで紡ぐ事の出来る繋がりが。

「なあ。また悲しい事は起きるかもしれない。もっと酷い事も起きるかもしれない。俺達は国だから、それには絶対に抗えない。それが国民の意思ならば、俺はまたお前に銃口を向けるだろう。それでも、俺はきっとお前を愛してしまうんだと思う。何度傷付いて、傷付けても。憎むべき相手であろうとも。それでも俺はお前の事を愛してしまうんだ」

だってずっとずっと愛しかった。浮かぶ笑顔に何度励まされた事だろう。
はぐれる事に怯えて、些細な繋がりを作る事に縋りたがる。こんな弱い俺が此所まで来れたのは、他ならぬ菊のお陰だった。
これからも俺は菊の笑顔を支えに生きていくんだ。そんな確信めいた予想が俺にはあった。

こんな風に、不安になるぐらい、躊躇う事があるぐらい、切なさに心が悲鳴を上げてしまう程に愛しい人は後にも先にも一人だけ。一人だけだ。
そのたった一人は俺の右肩に顔を押し付けた。両手がす、と背中に回される。小さく頷いてくれたのが堪らなくて、華奢な肩を掻き抱いた。
名前を呼ぶと、答えてくれる声がある。菊が此所に居る。その事実に泣けてすらきた。

きく、きく。何度も呼び掛けるとふわりと顔が持ち上がって、どちらからともなく口付けた。
舌を絡め互いの口内を占領するような深いものでは無かったが、触れるだけのそれは神聖さを孕んでいた。何より伝わる体温や微かに感じる空気の動きは表現し難い幸福感をもたらした。

名残惜しさすら感じながら唇を離して見た顔は、相変わらずボロボロだった。頬には幾つもの涙の形跡があとて、潤んだ黒い双眸は腫れていた。
作品名:誓いのキスを 作家名:志乃