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ミスターN
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『雨上がりの夜』

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『雨上がりの夜』

 蒸し蒸しと暑い、ある6月の昼下がりのことである。
 『765プロダクション』という、とある弱小芸能事務所のプロデューサー兼事務員として働いている私、秋月律子は、狭い事務所の仕切られたオフィススペースで仕事をしながら、仕切りの前の控室のようなところでダベっている何人かのアイドルたちの話声に耳を傾けていた。
 仕切りのせいで顔こそは見えないが、声のおかげで誰が話しているのかわかる。
 ふと、天海春香がこんな話を切り出した。
「ねえ、亜美、真美、ドラマの撮影とかで泣くシーンってあると思うけど、そういう時ってどんなこと思い浮かべながら演技してる?」
 どうやら演技についての話をしているようだ。双海亜美が答える。
「ん~、亜美は、そういうのやったことないからわからないなー。」
「真美も。逆にはるるんは、どんなこと考えてるの。」
 一呼吸おいて、春香が答える。
「私はね、もしもお父さんやお母さんが死んじゃったらって考えてるの。お父さん・お母さんが死んじゃったら、きっと、とてつもなく悲しいと思うから。でも、何度もそうやって泣く練習をするんだけど、演技の先生からは、『それじゃ全然ダメ』って言われちゃって・・・。なんだか嘘泣きっぽいんだって。」
「ふーん。泣くのって難しいんだね。」
 この声は亜美だろうか。
「まあ、はるるんは、笑顔が取り柄だからね。涙は似合わねえぜ、旦那。」
 このおどけた声は双海真美のほうだろう。
 春香が星井美希に話しかけた。
「そういえば、美希は泣く演技すごく上手だよね。この間の稽古の時も、先生からすごく評判だったじゃない!」
「うん?うん。」
 美希が気のない返事をする。どうやら、携帯ゲーム機をやっているらしい。
「ねえ、ミキキミは泣くときどんなことを考えてるのか教えてよん。」
 亜美が美希に尋ねている。
「そうそう、真美達をお助けくだせえー。」
 真美もそれに呼応していた。
「んーとねー、秘密なの。」
「ええー」×3.
 一斉にみんながブーイングする。
「何それずるいよー。教えてよー。」
「いいじゃん、減るもんじゃないしー。」
「そうだよ、美希、教えてよ。」
 3人が美希に迫るものだから、辺りが騒々しくなってきてしまった。一応、私の前では音無さんが仕事をしているのだ。あんまりはかどっていないけど。さすがに私は3人をしかりつけることにした。
「こらー、あんたたち、仕事の邪魔になるから静かにしなさーい。」
「はーい」×3
 その時、美希は意味深長にくすくすと笑っていたようだった。


 それから3日後のことである。夕方からパラパラと降り出した雨は、日が落ちると本降りになり始めた。
午後8時近くになり、オフィスに残っているのは私一人。すでにプロデューサーも音無さんも、他のアイドル達もみんな家路についてしまっていた。一方で私は、ここのところ毎日残業続きだった。
私がプロデュースしている、水瀬伊織・三浦あずさ・双海亜美の3人グループ、『竜宮小町』は、最近になってようやく世間に認知され始めていた。まだ華やかなスターを出したことのない、我が765プロにとって、『竜宮小町』はまさしく期待の星だった。
 そんな『竜宮小町』にもようやくメジャーデビューのチャンスが舞い降りてきたのである。私はこの絶好のチャンスをものにするべく、連日連夜3人のための企画を練っていたのだ。『竜宮小町』の浮沈は、765プロの将来を左右する一大事だし、私のプロデューサーとしてのキャリアにとっても、極めて大事な局面だった。だから私は、毎日徹夜に近い労働にも耐えることができたのであった。
 私がプロフィール資料の作成に没頭していたとき、ざーざーという雨の音に交じって、内階段のタイルを駆け上がる音が聞こえてきた。その音に私は、パソコンのキーボードを叩くのを止めて、その足音に耳をそばだてた。
 やがてその足音が事務所の扉の前までやってくると、その足音の主は思いっきり扉をあけ放った。
 驚いて仕切りの外をのぞくと、そこにはなんと!雨でずぶ濡れになった美希が立っていたのだ。
「美希!いったい、どうしたのよ!?」
「ちょっと散歩してたら・・・雨に降られちゃって・・・事務所に雨宿りにきたの。」
 美希は、全身をびしょびしょに濡らしながら、私には目を合わせず事務所の床の一点を見つめていた。
「ちょっと待ってて!タオルと着替えを持ってくるから!」
 私は急いで立ち上がると、給湯室のほうに向かい、何枚かハンドタオルをかき集め、更衣室から適当な服と下着を抜き取り、ドライヤーを携えると、美希のもとに駆け寄った。
「美希、タオルと着替えを持ってきたわよ・・・。」
 美希は扉の前で茫然と立ち尽くしているようだった。私が声をかけたことに気づいていないのだろうか。
なんだかいつもと様子が違う。美希に似つかわしくない閉口。私は訝しく思いながら、恐る恐る美希に声をかける。
「美希?」
「・・ん・・?あ・・・ありがとう・・・なの。」
 どうやら、ようやく私の存在に気付いたようだ。
「美希、これで体拭いて、それでこれに着替えるのよ。濡れた服はこれで乾かしてね。着替えとドライヤーはここに置いておくから。」
 そういって私はドライヤーと着替えを、控室のような空間にある長椅子の上にちょんと乗せた。
「うん・・・ありがとうなの。」
 美希は渡されたタオルですごすごと体をふき始めた。それを見届けると、私は自分の座席に戻り、作業を再開した。
 プロフィール資料とにらめっこをしながら、キーボードを叩いている。しかし、全然作業に集中できなかった。美希の突然の来訪、それに彼女は傘もささずずぶ濡れになっていた。嫌な胸騒ぎでタッチが止まる。
 気になって、仕切り越しに美希の様子を覗いてみる。美希はまだすごすごと体をふいているようだった。反応を探るべく声をかけてみる。
「タオルはまだあるから、足りなくなったら声をかけるのよー。」
「・・・・うん。」
 霞んで消えてしまうくらいにか細い声だった。ダメだ。会話が途切れてしまう。
 私は徹夜明けの頭を回転させ、美希に何があったかを推理しようと試みた。
 恐らく、美希が散歩していて、途中で雨に降られたというのは嘘だろう。美希の自宅からこの事務所まで、駅で何駅も離れている。それにそもそも、今日美希はオフの日だったはずだ。わざわざこんなところまで散歩をしに来るはずがない。
 それに、「雨に降られちゃって」というのも多分嘘だろう。雨が降り始めたのは、何時間も前だ。「急に雨に降らたから雨宿り」なんて、ありえないのだ。だとすれば、美希はどうしてわざわざ雨に打たれながらもここを訪れたのだろうか。
 美希はまだ中学2年生の14歳。午後8時を過ぎてこんなところにいたら、親御さんも心配するのではないか・・・。とりあえず、親御さんに連絡しないと・・・。
ははーん、読めてきた。きっとご両親と喧嘩でもしたのだろう。だから家を飛び出したということなのだろう。傘も持たずに。
 だとすれば、美希がこんなにも意気消沈している理由も理解できる。
ここは少し様子を見ることにしよう。まだそこまで時間は深くない。親御さんへの連絡は、もう少し後でもいいだろう。
作品名:『雨上がりの夜』 作家名:ミスターN