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温かい手のひら

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 涯は池田の手のひらからこれまでに感じたことのない暖かなものが流れ込んでくるのを感じた。
 きっとそれは涯を脆くもするが、より強くしてくれるものだった。



 池田と共に暮らし始めてわかったのだが、池田にはとかく生活力が欠落していた。男一人の暮らしではそれでもかまわなかったのかもしれないが、洗濯、掃除、飯の支度に至るまで、やらなくていいことなら徹底してなるべくしないという姿勢を貫いている。
 なので自然、家事は涯が請け負うことになった。
 基本的にはお互いにお互いの生活には関知しないという約束で始まった同居だったが、池田が酔って帰ってくれば介抱しないわけにもいかない。それに食事だって、一人分作るのも二人分作るのも大差はないし、洗濯も溜め込むよりは二人分でこまめにした方が楽だ。そんなわけで、金銭的にはいざ知らず、むしろ涯が池田を世話するような関係が出来上がっていた。
 もっともそのおかげで、一方的に庇護されていると思わされずにいるのは、涯にとってもかえって居心地が良かった。
「……家まで帰ってきたなら、せめてスーツは脱げよ池田さん」
「うぃーっす、おかえりー……」
 早朝の新聞配達兼走り込みから戻ってきた涯が玄関を開けると、三和土のところで池田がへたり込んでいた。朝まで飲んでいたんだろう。かなり酒臭い。酒を飲むのも付き合いのうちなのだろう。珍しいことではない。
 涯は溜息をつきながら、目深にかぶっていたパーカーのフードを脱ぎ、池田の傍らに片膝をついた。
「あー……いつもお手数をおかけしますねー……」
 酔っぱらった池田はへらへらと笑っている。
「ジジイかよ……」
 律儀にツッコミを入れて、涯は池田を抱え上げる。足で脱げかけた靴を適当に脱がせ、自身もランニングシューズを投げ出すように脱いだ。
 池田の部屋のベッドに本人を放り投げると、一応情けでスーツの上下と靴下を脱がせ、ネクタイを解き、スーツはハンガーにかけてやった。
 その頃には池田はちゃっかりと自分でシーツの隙間に潜り込んでいる。
「……いい加減嫁でも貰えよ」
「いやー、俺、モテるんだけどさー……その時はお前も一緒に来いよー? ……新婚旅行も? ふわっ……ぶははは、ありえねー……成田離婚確定……! いや、結婚できねー? ふはははははは……」
 何が面白いのか、池田は笑い転げている。
 ……これだから、酔っぱらいは。と、涯は再び溜息をついた。もう池田との付き合いは4年近くなるが、酔っぱらいの面倒をみるのは慣れる気がしない。
「しっかし、でっかくなったよなー……」
 池田はベッドの中から涯を見上げてしみじみと呟く。中学生の頃、鍛えてはいても栄養が足りずに薄かった身体は、いつの間にか均整がとれ背も伸び、見るからに逞しくなった。少年から青年へと変貌を遂げようとしている美しい姿だ。
「おかげさまで……」
 涯がぺこりと頭を下げ、部屋を出ようとすると、池田は「待て」と声を掛けた。
「……何ですか?」
 涯が振り向くと、池田は億劫そうにスーツの方を指さした。
「胸ポケットの封筒、お前のだから持ってけ」
「……俺の?」
 ハンガーにかけたスーツを今一度手に取り、封筒を取り出すと、中には何枚もの紙幣が入っていた。金額はばらばらだが、まとめれば束と言ってもいい量だ。
「どういうことだ、池田さん」
「……お前のファイトマネー。チケット売ってきてやった」
 ひひっと、池田は大人げない笑いを見せる。
「……」
 涯が声も出せずにいると、池田は悪戯な子供みたいな笑いを大人のそれに変えた。
「デビュー戦、頑張れよ」
「……はい」
 涯はチケットで支払われたファイトマネーを、どうにも売りさばけずにいた。どうにかして自力で売ることができたのは、人間学園で知り合った小川や石原といった連中にぐらい。それも金はいいから見に来てくれと押し付けようとしたら、そういうわけにはいかない、と一枚づつ購入してくれたものだ。他にも見に来てもらいたい相手はこの4年の中で何人もできたが、最初に小川や石原が買ってくれてしまったものだから、どうにもチケットを渡しにくくなってしまった。
 まるで押し売りのようだと、涯が躊躇ってしまったからだ。
「しかし、馬鹿野郎……みんな、お前のデビュー楽しみにしてたんだぞ。危うく見逃すところじゃねーか」
 池田は眉を顰めて言った。
「後でお前、ちゃんと皆さんに怒られて来いよ。変な遠慮するなって……そのうちプラチナチケットになって見られなくなるんだから、ちゃんとチケット確保しとけ、って社長にも俺が叱られたんだからな」
 池田が社長と呼んでいるのは、池田に仕事を世話し、涯にジムを紹介してくれた男だ。鳳臨グループから平田一族を追い落としたい、と現れて、池田と涯を取り引きの切り札だと保護してくれた。彼が現れなかったら、真犯人だった息子をスケープゴートにするだけで終わっていたことだろう。
 どう取り計らったものか、彼の動きによって、平田家は一族もろとも鳳臨グループの中枢から排除された。現在実質鳳臨グループを取り仕切っているのは、池田が社長と呼ぶ男だ。
 そんな相手にだから、もちろん金は受け取らずにチケットはプレゼントするつもりだったのを、彼も池田からチケットを買ってくれたものらしい。
「ありがとうございました……!」
 涯が改めて頭を下げると、池田は照れ臭そうに布団にもぐりこんでしまい、手だけをひらひらと振った。
「……俺も夜までに酒を抜いて応援に行くから」
「……はい」



 身支度を整えた涯は、いよいよプロデビューの会場に向かうため、玄関を出た。
 自分に依って生きたいと孤立を渇望した少年は、いつの間にかたくさんの人たちに支えられ、力強く大地を踏みしめていた。
作品名:温かい手のひら 作家名:千夏