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惹きつけられた業火

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最後の、本当に最後の大勝負……勝ったのは、カイジだった。
(あぁ、俺なんでこの薄汚い野良犬野郎の口車に乗せられちゃったかなぁ……)
 見事なまでの大敗に世界がぐんにゃりと歪む感覚を覚えながら、和也は抱き合って喜ぶカイジたちを見ていた。
 人払いをした倉庫の中、和也を支えようという黒服は一人もいない。
(いや、いたとしたって本気で支える奴なんかいたかどうか)
 ぼんやりと和也は黒服たちの顔を思い出そうとして、すぐに諦めた。
 彼らは和也にとって顔のないただの手駒だ。
「さてと……それじゃ、カイジ……カイジさん、ここにある金は皆あんたのもんだ」
「おぉ……おお!」
 体を固定するベルトから解放され、並べられたアタッシュケースに駆け寄るカイジ。しかし、その耳に機械の作動音が聞こえ足を止める。
「え?」
 がたん、がたん、と大きな音を立てて動き始めたのは和也側の椅子だった。
「か、和也、お前……!?」
「かかかかか、当然だろ。あんたは勝って俺は負けた。いわば、これは敗者の権利! あんたが負けていたらそうなったように、俺はこれから脳天から落下して死ぬんだ」
 目を見開くカイジにざまぁみろと思う。
 カイジは博打に勝ち、和也を殺すのだ。見知らぬガキの死にさえ涙をこぼしたお優しいカイジは、きっと自ら手を下した和也のことなど忘れられやしないだろう。
 いわば伊藤開司という狂気の博徒の魂に己の死を刻み込んで死ねるのだ。
 和也はひどくヒロイックな気分で、マザーソフィーの振動に身を委ねた。
「ば、馬鹿野郎! 俺は、俺はそんなこと望んじゃいねえ!」
 早くも泣きわめきながら、カイジが装置にしがみつく。残念ながら、人ひとりの力でどうこうなるほどやわな作りにはなっていない。
 カイジは機械に引きずられながら、机の引き出しを開くと、希望に目を輝かせてスイッチを取り出した。
「ほ、ほら……これ! これで助かる! 死ぬな! お前ならきっと助かるだろう! これ、使えよ!」
 嬉しそうな顔で差し出してくる、セーフティネットのスイッチ。
「キキキ、あんたそれ、32分の1の確率とか何とか言ってたじゃん。そんなもんで本当に助かると思ってんの?」
「それにしたって確率は零じゃねえ! 死ぬな、死ぬな、和也!」
 必死な様子のカイジはとても滑稽で、和也は腹の底からの哄笑を上げたくなった。
「かかかかか……ききききき……くくくく……俺に死んでもらっちゃ困るよなぁ!? だって俺が死んじまったら、あんた絶対親父に復讐されるもん! ひどい目にあうに決まってるもん! そうだろう、そうだって言えよ!」
「バカ野郎! そんなことはどうだっていい! いいから、これを受け取れ!」
 カイジが差し出してくるスイッチを和也は受け取らなかった。そして、椅子は無慈悲にガタン、と音を立ててひっくり返り、和也はまっさかさま。
「き……ききき……こりゃ、結構クルな……」
 首のあたりの毛をちりちりとくすぐるような不快な感覚が、背骨をずうぅっと這い登ってくる。これが死の間際の感覚か。死ぬまで目を開けていようかと思ったが、さすがの恐ろしさに和也も目を閉じてしまう。
 情けない。俺はこんなに情けない男だったのか。
 だけど、せめて、カイジにだけはみっともない姿は見せずに逝く……気も遠くなりそうに長い時間を待たされた気がした。がちゃり、とベルトが外れる音が聞こえ……和也の身体は支えを失った。
「っ……」
 一瞬で脳内を駆け巡る過去の回想、自分を恨めしげに見る連中の顔顔顔。最後の時になって俺はこんな……消えろ消えろ、消えちまえ! 俺はお前らなんかと違う! 悲鳴を上げそうになる喉を噛み締めた歯で必死に食いとどめた矢先、和也の身体は思わぬ何かに阻まれた。咄嗟に考えるよりも早く、体が勝手にそれにしがみつく。
 死ななかった、死なずに済んだ……!
 死への恐怖は後からその全貌を現した。まさしく脳が焼け付くほどの恐怖。
 死にたくない、死にたくない、死にたくない……!
 この時だけ、和也の脳は生への渇望に満たされた。いつ死んでも構わない、むしろ自分で命を絶つにはどうすればいいか、生ぬるい日常ではそんな夢想に満ちていた思考が、一瞬で死への恐怖に書き換えられた。
 体を引っかけたネットをよじ登ろうと、全身で必死に力の限りしがみつく。自分の姿がみっともないだとかそんなことは頭の片隅にも浮かばなかった。
「和也っ……!」
 駆け寄ってくる足音、差し出される手。
「もう少し……もう少しだ! その手は絶対に離すなよ! 俺が……俺が助けてやる……!」
 後で思い返せば笑い話だっただろう。どんなにかっこいいことを言ったところで死刑を執行したのは他ならぬ、カイジ自身。それなのに俺が助けてやる、なんてとんだお笑い草だ。
 何はともあれ、カイジは和也のスーツをわしづかみにすることに成功し、チャン、マリオの、そして戻ってきた黒服たちの助けもあって、歳の割に大きな和也の体を引きずりあげた。
「は……ははっ……やった……よかった……助けられた……」
 何かをわんわんわめく黒服たちなど気にも留めず、へたり込んでいるカイジ。
 間一髪で救われた死への恐怖でガタガタと体を震わせながら、和也は理解した。
 和也を救ったのは他ならぬカイジだ。和也が受け取らなかったスイッチで目押しを成功させ、和也を地上に落としはしなかったのだと。
「っかかっ……だっせ……」
 口の中で小さくつぶやいて、和也は自分の醜態を嘆いた。自分がどれほどみっともなく命乞いをしたかに思いを馳せた。助かると思った瞬間、恥も外聞もなくネットにしがみついていた自分。
 自分は、自分だけは違うと思っていた。死への恐怖も受け入れて見せるのだと、凡俗な連中とは違い、死へのその瞬間も頭をしゃんとあげて受け入れて見せるのだと。自分の耳を切り落とし、指を差し出したこの男のようにそれができると、実際その状況に直面するまで信じていられた。
 和也はようやく自分が今まで殺してきた連中の恐怖と無念を知った。なるほど、オカルトを頼りに自分を殺す相手を呪詛したくもなるだろう。死には圧倒的に力がある。何物もかなわないほどの力が。それこそ金の力などくだらないと理解できるほどに。
「……死ねっ……クソがっ……」
 和也はカイジを睨みつける。
 初めて誰かを心の底から殺してやりたいと思った。自分自身の手で切り刻み、内臓をぶちまけ、踏みにじってやりたくなった。それでもまだ手ぬるい。
 カイジは、和也の矜持をバラバラに打ち壊し踏み潰したのだ。跡形もなく、これ以上なく。その底にあったのはがっかりするぐらいにごく普通の、平凡な自分。死の恐怖に怯え、何とか助かろうとしてしまう浅ましくみっともない自分。
 気が付いてしまったからには、次に危機に直面した時には、もはや自分を偽ることなど叶わないだろう。死にたくないとみっともなく命乞いし、自分が承諾した駆け引きさえも反故にしようとするに違いない。今まで見てきた浅ましい連中と同じように。
 カイジが和也を救おうなどとしなければ、こんな情けない自分など文字通り一生知らずに済んだのに。
「死ねっ……死ねっ……死ねっ……!」
作品名:惹きつけられた業火 作家名:千夏