惹きつけられた業火
涙が溢れた。和也は理解してしまっていた。
カイジのいる高みに、あるいは自身の父親がいる高みに、自分は一生手が届かないのだと。それだけの覚悟が、乳母日傘で育った自分には、ない。自分が置かれた状況を疎み、嘆いてみせるだけで満足していた自分にはそもそもの資質がない。薄々は気が付いていたことが、死に真向かったことで浮き彫りになってしまった。
「おい」
和也は短い言葉で黒服を呼びつける。
「送ってやれ」
「……は?」
「あいつらを送ってやれ。金も全部持たせて」
「し、しかし……和也様……」
それでいいのかと、黒服は戸惑う。
「俺にこれ以上恥をかかせる気か! さっさとしろ!」
きびきびと黒服たちは動いた。
今度こそ大金に喜ぶカイジは和也に視線の一つも向けようとはしなかった。
くそっくそっくそっ……!
あの夜から数日、とにもかくにもふと気になって、和也はカイジの動向を黒服に探らせた。殺しても殺したりない、八つ裂きにしたい。そのためにはどうするべきなのかはまだ決めあぐねていた。
黒服はホッとした様子で、カイジのことを調べてきた。
カイジはなぜかあれだけの金を持ちながら住むのがやっとというぼろアパートを借りて、そこで日々暮らしているらしい。
パチンコや競馬程度の賭け事に興じてはいるが、特に熱が入る様子もなく、豪遊している風には見えないという。
まさかあれだけの金をもうすったのか?
カイジならあり得なくもなさそうな話で、聞けば聞くほど無性に気になった。だが、それだけの賭場を立てられる人間がこの日本にどれだけいるだろう。帝愛の傘下で行われていたなら、それは和也の耳に届いていてもいいはずだ。
「浚いますか?」
気をきかせて黒服が聞いてきたが、和也はいやいいと答えて、自らそのアパートに足を運ぶ気になった。
やはり殺しても飽き足らないほどに憎いのか、それともカイジが破滅した姿を拝んで溜飲を下げたいのか、あるいは決着したあの勝負へのただの未練なのか、なぜそんな気になったのかは和也自身にもわからない。だが、理由は何にせよ、あの後のカイジを自分の目で確認したかった。
カイジが住むというアパートに足を運んで、和也は絶句した。
「……なんだこりゃ」
想像以上のぼろアパート。うっかりしたら踏み抜くんじゃないかというくらいに錆びつききしむ外階段。
とても人間のすみかには思えない。
階段を恐る恐る上がってみて、どうやら登れそうなことに安堵した。少なくとも億万という金を抱いた男が住む住居ではけしてない。
カイジはぼろアパートの2階に住んでいた。チャイムを押してみたが反応がない。ノックをしても手が汚れそうな気がして、ドアノブにハンカチを巻き引いてみた。ドアは何度か引っかかった後、きしむ音を立てて開いた。鍵が開いていたのかと思いきや、単に壊れてバカになっている。
(鍵の意味ねー……)
あの20億強の金をもうすったのか、そいつはすげーやと感心しながら和也はカイジの部屋に足を踏み入れた。
すると、そこにはカイジがいた。大量のアタッシュケースに埋もれるようにして、煙草を吸っていた。
「って、え? いたのかよ!」
「っな……何なんだよ、お前は!? チャイムも押さずにいきなり入ってきて!」
「チャイムは押したよ! ノックはしなかったけど!」
そういえば、音はしなかったな、と和也は思い返した。このぼろい家でチャイムが鳴れば、それは押した側にも聞こえたことだろう。何のことはないチャイムも壊れているのだ。
あの日、和也が殺したいと八つ裂きにしたいと願った男はこのぼろアパートで、あの日和也から巻き上げた金を褥に蹲っていた。
「……って、あれ? まだ、あの金持ってたの?」
思いがけない光景に和也はぽかんと口を開けた。こんなぼろアパートに住んでいながら、まだあの金を所持していたとはとても信じられない。
「全部じゃねーよ。いくらかは使ったし、チャンとマリオにも分けたし……それ以外にもまぁ、いろいろとな」
そう言いながら、カイジは濁った眼でぷかーっと煙草を吹かした。
「でも、大部分はまだ持ってるってこと? それじゃ、なんでこんなぼろアパートに住んでんのさ。少しづつ使えば一生食ってけるだろうからってこと? はぁーしみったれてんな! あんたほんとに伊藤開司かよ……!」
一時期のもうけを喰い潰してちまちま生きていくなど、あまりにさもしい。こんな男を殺したいとまで思ったことが恥かしくなって、和也は額に手を当てた。
時に凄まじいまでの気迫を見せるが、それ以外のところはてんでクズ。それは知っていたが、まさか普段の伊藤開司がここまでのつまらない男だなどとは思いもしなかったし、知りたくもなかった。なぜわざわざこんなところに足を運んでしまったんだろう、と和也が後悔し始めた矢先。
「ちげーよ……足りねえな、と思ってさ……」
カイジはもつれた髪をぼさぼさと掻きむしって、無造作に置いたアタッシュケースを見渡した。
「はぁ? 足りない? 言っちゃ悪いが、あんたがどうあがいたって、何度か死んでも普通じゃこんな金稼げねーぞ」
カイジから放たれた意外な言葉に唖然とする。残ったのが半分だとしても10億。和也のような使い方をしていれば、いくらあっても足りないが、普通の人間が普通に使う分には、それこそ一生かかっても使い切れないくらいの金額のはずだ。ましてこんな暮らしをしていれば、足りないわけがない。それで足りないなどと強欲にもほどがある。
「知ってるよ。それでもな、足りねえ。こんなもんじゃ全然足りねえ」
底知れない闇を映すような淀んだ瞳。和也はカイジの瞳の色に気づいてぞくりとした。
……違う、こいつはまだ狂ったままなんだ。
「だって、足りねえだろうが……帝愛の、お前の父親を場に乗せるためには、あいつを破滅させるためにはどう考えてもよぉ……!」
びりっと、魂の根幹を震わせられた。
面白い、こいつはまだ本気で親父と戦える気でいる。20億といえど、兵藤和尊の個人資産からいえばはした金だ。しかし、そのはした金を種銭に兵藤和尊から破滅をむしり取る算段を立てていたとでもいうのか。
「この程度の金額じゃ、あいつは出てこない……あの時とは条件が違う……! 野郎をギャンブルに巻き込むには何かが足りない……! あいつを破滅に導くためには、こんなはした金だけじゃダメなんだ……!」
どくりどくりと体中の血液が逆流するような興奮を和也は覚えた。やはり、こいつは面白い。伊藤開司は誰よりも面白い男だ。
「あーって言っても、ここからどう増やしたらいいのか思いつかないんだよな。投資ってのも考えたけど……」
悪魔のような博徒の顔をしていたかと思えば、ふっと情けない顔に戻ってカイジはバリバリと頭をかきむしった。
「やめときなよ。投資ってのは、あれで情報やノウハウがいるんだぜ。金だけあってもどうにもならねーよ」
いくら博才があったところで、カイジにその手の才能があるとはとても思えない。
「そうだよな……それにそもそも、株? ってのとかどう買ったらいいかもわかんねーし」
カイジはふてくされた様子ですぱすぱと煙草を吸い始めた。