お醤油を買いに
恥ずかしいから言うのはよそうかと思ったが、どうしてもヒトコト言ってやりたくなって、カイジが小さな声で呟くと、アカギは一瞬呆気にとられたような顔をして、それから小さく笑った。
「ずいぶん可愛いこと言うんだね、カイジさん」
それからもアカギの悪癖は治らなかった。
カイジに何を告げることなく、気まぐれにどこかに出かけてはひょっこり顔を見せる。
いつしかカイジの方が諦めがついてしまって、こいつはそういう生き物なんだと思うようになった。
初めから納得していれば腹も立たない。
それに、しばらく間を開けて顔を見せる時、カイジがアカギの分も飯を用意しているのを確かめると、アカギは嬉しそうに笑うのだ。自分では自覚していないかもしれないが、いつも吊り上がって弧を描く形のいい眉がわずかに下がり、不愛想な硬い頬が柔らかく緩む。アカギのそんな表情の変化はよほど注意してみなければ気が付かないかもしれないが、カイジはわかってしまった。
そうなると野生動物を手なずけたようなもので、アカギが顔を見せてくれるだけで嬉しくなるし、自分がバイトなどでアカギに待ちぼうけを喰らわせてしまうと申し訳なくすらなる。
次第に飯を食う時だけじゃなく一緒に過ごす時間自体が長くなっていった。日によっては一日中一緒にいることすらある。そんな時には会話らしい会話がない時間もあったが、けしてその時間を苦痛だなどとは思わなかった。
思い思いの時間をだらだら共に過ごすのは案外気持ちよかった。
そんなある日のこと、珍しくカイジが来客を連れて帰ってきた。腹は減っていたがアカギはカイジの部屋を訪れるのはやめにした。
聞くともなく物音を聞いていたのだが、何かを言い争っているようだった。だがやがて、カイジの方が折れ来客は去っていった。その頃にはもう深夜だった。隣を訪ねてもよかったが、カイジが落ち着かない様子なのも分かった。
その日は、いつまでもカイジの部屋の明かりが消えることはなかった。
次の日、アカギはカイジの部屋を訪ねてみるつもりだったが、それより先に迎えが来た。急に入った代打ちの仕事だ。しかも大きな話だ。
ふと嫌な気がしたが、アカギは迎えに乗ってしまった。そのまま一週間が過ぎた。
アパートに戻ってみると、カイジは不在だった。
カイジだって出かけることもあるだろう。
自分が代打ちでちょっとした旅行をするのはざらだ。そのぐらいのこと、誰にだってあるに違いない。
そう思っていたのに、カイジはいつまでたっても戻ってこなかった。やがて、カイジの部屋のチラシは管理会社の誰かの手で綺麗にされ、空き家の表示が掛けられた。
つまりカイジは何らかの事情でアカギに黙って引っ越したか……そう高くもないこのアパートの家賃を払えなくなったか……あるいは行方不明になったのだった。
アカギがカイジの部屋を訪ねなかったあの日、カイジの部屋を訪れていたのは借金取りと、バイト先の元同僚だった。
借金取りが持ち込んだギャンブルの話にカイジは乗り、元同僚と、自身の左耳と、左手の四指を失うことになった。
失った耳や指は接いでもらえたものの、金を得ることもできず、借金を増やして野に放たれた。
カイジはアパートに戻ることもできず、浮浪者になった。そして、借金返済のため、地下での重労働を科せられることになり、そこを出た後は知人の家にしばらく厄介になり、そしてまた浮浪者になった。
カイジはぼんやりと空を眺めて、どこで道を間違ったのかと思う。
もちろん最初に思い出すのは、判断を誤った直近のギャンブルのこと。だがひとりでいると、そのうちに思い出すのはアカギのことだった。
無論あの時にはすでにカイジには借金があったのだから、人生の何を誤ったかと言われればそのずっと以前のことではあるのだけれど。
たぶん、あの時にアカギに声を掛けたことだけは間違いではなかったとはっきり言い切れる。
アカギと過ごしたあの時間だけは、間違いだらけのカイジの人生の中で唯一間違わなかった時間だった。
「……腹減ったなぁ」
ぼんやりと空を眺めていると、ふとカイジの前で足を止めた奴がいた。
「奇遇だね。オレも腹減ってんだ」
顔を上げると、そこにあったのはあの日と変わらないアカギの姿だった。
「あ、あか……」
「また飯食わせてよ。醤油、買ってやるからさ」
アカギはそう言って、柔らかく笑った。