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マトリョーシカ

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1989年10月 ウィーン


 列車が国境地帯にさしかかった頃には、すでに日は傾き始めていた。
 その年の5月にハンガリー人民共和国政府が地雷を撤去して国境を解放して以来、多くの東ドイツ国民がハンガリー経由で西へ向かって大移動を始めていたが、同じルートを東へ向かう一等車両の乗客はまばらで、鉄路を喰む車輪の心地よいリズムだけが、黄金色に染まった空気を震わせている。
 そんな静けさの一角に、車窓にほおづえをついて斜め後ろから差し込む西日の眩しさを手で遮りながら、ぼんやりと外を眺めている初老の男の姿があった。肩幅の広いがっちりとした体格に、地味ながら仕立ての良いスーツをまとい、灰色がかった髪を柔らかくなでつけている。豊かな口ひげをたくわえた顔には厳めしい印象がなくもないが、全体としては人当たりの良い上品な紳士といった風貌である。
 それはアレクサンドル・マクシモヴィチ・ザイコフの生来の資質でもあったが、初対面の相手に柔和な印象を与えるよう、特に努めた成果でもあった。外交官として他国の大使館員や任地の政府高官たちの相手をするのには、この優雅な風貌が役に立つ。KGBの情報官が在外ソ連公館の職員と称して、世界各地に合法的に駐在していることは比較的よく知られていたが、穏やかな笑みを浮かべて握手を交わし、親し気に雑談に応じるザイコフに接して、いつか彼が自分を陥れたり脅迫したりするかも知れないなどと警戒する者は少なかった。ソ連大使館のニ等書記官アレクサンドル・マクシモヴィチ・ザイコフの正体が実は「白クマ」という暗号名を持つKGB海外駐在官だと知っているのは、同じ穴のムジナども、すなわち情報関係の人間だけだ。
 外交官に与えられる様々な外交特権は、情報活動には実に便利なものだが、その気になれば自分自身の利益のために利用することもできた。実際、海外駐在官の中には外交嚢を使って商品を密輸し、私腹を肥やす者もいた。もちろん当局はそうした行為を禁じてはいるのだが、よほど目に余らぬ限り特に力を入れて取り締まるようなことはなく、半ば黙認されていた。ソ連官僚に特有の「ニチェヴォー(まあいいさ)主義」というやつだ。だからザイコフも、しばしば同僚の不正に気づくことはあったが、あえて糾弾することはなかった。ただ、自分だけは誇りにかけて、特権を私的に利用することだけは絶対にしないと決めていた。そしてその決心を破ったことは一度もなかった。そう、今日までは…。
 だがザイコフは今、特権にモノを言わせてヴィザを持たぬままハンガリーへ入ろうとしているのだった。完全にプライベートな目的のために。



 ミハイル・アントノヴィチ・クラヴィツキーが何の予告もなしにウィーンの大使館を訪ねてきたのは、一昨日のことだった。
「やあ、久しぶりだなニ等書記官」
「驚いたな。君がウィーンに来るとは聞いていないぞ」
「なに、ちょっと引っ張り回されてね。本当ならミラノで片付くはずだったんだが、こっちまで来るはめになっただけだ」
 そう言ってミーシャはにやりと笑った。水面下で静かに工作や裏取り引きを進めるザイコフとは対照的に、敵を執拗に追いかけてヨーロッパ中を飛び回り、場合によっては銃撃戦も厭わない実戦タイプの男である。今回もさぞやハードな強行軍をやってのけたに違いない。
「ふむ。それでもどうやら上手く片付いたようだな。顔を見れば分かるよ」
 ザイコフが言うと、ミーシャは今度は照れ臭そうにしながらも、満面に嬉しそうな笑みを浮かべた。百戦錬磨の古強者のくせに、妙に子供っぽいところがある。まるで雪合戦に勝利したやんちゃ坊主の顔みたいだと思いながら、ザイコフもつられて微笑した。
「それでひとまず、ウィーンで骨休めというわけか」
「いや、そうしたいのはやまやまだが、すぐに帰国せねばならん」
 ミーシャは真顔に戻るとそう答えた。
「部下たちはすでに空港へ向かっている。わしもすぐに行くが、その前に君に知らせておきたい事があったので、立ち寄ったのだ」
「…何かあったのか?」
「いや、ちょっと小耳にはさんだ事なのだが…」
 わざわざ知らせに来たと言うわりには、話すのをためらうようにミーシャは口ごもった。
「何だ。もったいぶるな。それを言うために来たんだろう?」
「うむ…。実はな……」
 なおも言いにくそうにしていたミーシャだが、ザイコフの目がひたと自分に向けられているのに気づいて、とうとう決心がついたらしい。おもむろにこう切り出した。
「…ルカーチ・ユリアを覚えているか?」
 ザイコフは一瞬、心臓をわしづかみにされたような気がした。ずっと以前、意識のいちばん深いところに用心深く埋めたまま、意識して掘り返さぬようにしていた名前だった。しかも、その名を二度と口に出すなと言ったのは、他ならぬミーシャではなかったか…!? それを何故、今になって…。
 ザイコフの胸中を読み取ったのだろう。ミーシャは申しわけなさそうな顔で頷きながら、話を続けた。
「今、ショプロン郊外のセーチェニ記念病院に入院している。心臓を患ってるそうだ」
「……生きていたのか…?」
「うむ…。ルビヤンカで処刑されるはずだったんだが、何らかの理由で先延ばしにされているうちにチェコ事件が起こってな。カーダールに軍事介入への参加を承諾させるための交換条件として、ソ連国内に収監中のハンガリー人の政治犯数名を送還することになった時、彼女もリストに入れられたらしい。ブダペストに戻って2〜3年は警察の監視つきで通訳をしていたが、その後ショプロンに移って通訳兼ガイドをしながら生計を立てていたようだ」
 ミーシャの淡々とした口調を聞きながら、ザイコフは混乱していた。あの女性が生きのびていた? このウィーンから目と鼻の先のショプロンで暮していた? そして今は心臓を患って入院中だと? 
 第一なぜミーシャがそんな事を知っているのか。そしてなぜ今、自分に知らせるのか。
 いろいろな疑問や感情が一斉にわき上がってきて、互いにせめぎあい、波立っていた。怒ったらいいのか喜んだらいいのか悲しんだらいいのか、自分でもまったく分からなかった。手がつけられぬほどの大混乱をきたしてしまうと、結局は普段と変わらぬ態度でいるほかはない。
「…彼女が生きていることを、いつから知っていたのかね?」
「それはまあ、どうでもよかろう」
「小耳にはさんだ話にしては、やけに詳しいな」
「もう余命いくばくもないらしい、という話を小耳にはさんだのだ。…会いに行くかね?」
 すでに混乱しきっていたザイコフには、ミーシャのこの言葉はほとんど理解不能だった。とうに死んだと思っていた女性だ。それが今になって死にかけていると言われてもピンとこない。ましてや会いに行くだって…? いったい今さら何のために…?
 言葉もなく呆然とするザイコフに向かって、ミーシャはさらに言葉をついだ。
「明後日のショプロン駅のパスポートコントロールは、わしの知っている男だ。行く行かないは、もちろん君が決めればいい事だが、とりあえず話だけはつけてあるからな。知らせたかったのはそれだけだ」
 じゃあ、と言うように片手をちょっとあげると、ミーシャはくるりと背を向けてドアに向かった。
「待て、ミーシャ。ちょっと待ってくれ」
作品名:マトリョーシカ 作家名:Angie