マトリョーシカ
まだ混乱がおさまらない。頭の中が整理できない。いきなりやって来て人を混乱させて、自分はさっさと帰るつもりか。ザイコフはそう言いたかったが、うまく言葉が出てこなかった。
ドアの手前でミーシャはちらりと振り返り、ぼそりとつけ加えた。
「…彼女、ひとりで通してるそうだ。誰かと同じようにな」
ミーシャが出ていくと部屋の中は急にしんと静まり返った。まるで水の底にいるように、体がふわふわと揺れている気がした。地に足がついていないような感覚のまま机に歩み寄り、ひとまず椅子に腰をおろすと、ザイコフはひとつ大きく息をついた。そのくらいで気が鎮まるとはとても思えなかったが、実際にやってみると、不思議なことに少しはものを考える余裕が戻ってきた。そこでもう一度、今度は少し控えめな溜息をついてから、ザイコフはおもむろに机の引き出しを開け、一番奥の方に転がしてあった豆粒ほどの小さな木製の人形を取り出した。
そのうち無くしてしまうことを期待して意図的に無造作に扱いながらも、自分からはどうしても捨てることができぬまま、結局この三十年間、任地が変わるたびに引き出しから引き出しへと持ち運んできてしまった人形だった。
黒一色で大雑把に描かれた目鼻、黄色と赤で簡単に彩色されただけの衣装。
それはマトリョーシカの最後の一体だった。組みになった入れ子式の人形の中で、いちばん小さくて、いちばんつくりが雑な、いちばん粗末に見える一体。
でも、これだけは本物です、とユリアは言った。最後に残る真実です…と。
あの女性が、生きていたのか……。
列車が速度を落とし始めた。まもなく国境の町ショプロンに到着する。