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マトリョーシカ

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「それはそうだろうが…」ミーシャは苦笑した。「あの参事官はベリヤの時代を切り抜けてきてるんだ。自分に対する疑惑を他人にそらすやり方を知ってる。おれはもちろん君を信じるが、上の方はどう考えるか分からんぞ。それに君、参事官と大使の前で、女との関係を認めたそうじゃないか」
「認めたよ」
「…それは少し、まずかったんじゃないか?」
「なぜ!?」
 たぶん苛立っていたのだろう。ザイコフは思わず食ってかかるように語気強く聞き返していた。ミーシャがびっくりしたようにこちらを見たのが分かったが、ザイコフは顔を背けるように窓の方を向いたまま、友の顔を見ようとはしなかった。ミーシャは何も言わず、すぐに前方の道路に目を戻して運転を続けた。
 もちろんザイコフにも、ミーシャが『まずかった』と言う理由は分かっていた。そして彼が本心から自分を心配して言っていることも…。
 ザイコフは自分の気を鎮めるために、目を閉じてひとつ深呼吸をした。
「……すまん」
「かまわんさ」特に気を悪くした様子もなく、ミーシャが言った。「君でも、そんな風にイラつく事があるんだな」
 ザイコフは何も言わなかった。波立った気持ちはすぐには静まらなかったが、隣にいる親友が平常心でいてくれるのは心強く、またありがたかった。
 しばらくの間、ミーシャは運転の方に意識を集中させ、話しかけるのを控えてくれているようだった。その気遣いに甘えて、ザイコフは目を閉じたまま、心の表面の波がおさまってゆくのを待った。
 そうして長い沈黙が流れた後、ようやく目を開きかけたザイコフに、ミーシャが静かに尋ねた。
「そんなに惚れてたのか」
「……好きだったよ」
「君を裏切った女だぞ?」
「それでもだ」
 やれやれ、と言うようにミーシャは軽く頭を振った。
「君はもっと、要領のいい男かと思ってたぜ」
「……たとえ疑われることになっても、見苦しいウソだけはつきたくない」
 ミーシャはしばらく黙っていたが、やがて小さくため息をついて、言った。
「…まあ、君がその覚悟なら、何も言うまいよ」
 ハンドルを握りながら、ミーシャはちらりとザイコフの顔を見た。それから目を前方に戻すと、意識的に声の調子を変えて言った。
「なあ。この前会った時、今度は酒でも酌み交わそうと言ってただろう? これからどうだ?」
 いきなり何を言い出すやら。驚いたようなあきれたような顔を向けたザイコフに、ミーシャはにやりと笑って見せた。
「おれは君が自宅に戻るのを確認さえすれば、今日の仕事は終りだ。報告は明日でいいそうだ。だから君んちに着いたら、そのままそこで飲まないか? 実はそのつもりで用意してきたんだが」
 右手の親指で後ろを示すので、ザイコフがバックシートを覗き込むと、そこには緑のラベルのついた透明なボトルが転がっていた。まだ封の切られていないストリチナヤだった。
 ザイコフは改めて親友の横顔に目を戻した。何と言っていいか、しばらく言葉が出て来なかった。
「つき合えよ。いやだとは言わさんぞ」とミーシャが言った。
「…仕方がないな。つき合うよ」ザイコフは応え、ようやくかすかな笑みを浮かべた。
「Хорошо! そうと決まれば一目散だ」
 ミーシャは大袈裟に喜んでみせると、アクセルを踏み込んだ。口元に笑みを残したまま、ザイコフは外を見るふりをしてミーシャから顔を背けた。少し視界が滲んできたので、あわてて2〜3度まばたきして、何とか落ち着かせた。それから、深夜のがらんとした街並がどんどん後ろへ流れていくのを眺めながら、ザイコフはごく静かに言った。
「…ありがとう、ミーシャ」
 ミーシャからの返事はなかった。たぶん運転に集中していて聞こえなかったのだろう。



 ザイコフはその後第6局に異動となり、中ソ対立が深まる中、1959年からの5年間を北京で過ごすことになった。一方アナトーリ・ボロディン参事官はパリに移され、そこで再び同じ過ちを繰り返す。今度は致命的だった。相手の女が西側のプロだったからだ。
 外交特権を持つボロディンが西側に逮捕されることはなかったが、代わりにモスクワが彼を呼び戻し、厳しく追求したのは言うまでもない。その結果どういう処分になったかは知らないが、ユリアの一件についても追求が及んだらしく、それによってモスクワの疑惑もようやく晴れ、ザイコフは北京から呼び戻される。
 1963年にモスクワに戻ってきた時には、ザイコフはユリアがすでに亡いものと思い込んでいた。何度もモスクワの中心部を行き来しながら、すぐ近くのジェルジンスキー広場の裏手で、彼女が生きているとは思いもしなかった。
 ユリアの身柄はプラハ事件の際、収監中の他のハンガリー人とともに、カーダールとの取り引き材料になったと聞いたが、当時のKGB議長をアンドロポフが務めていたことを考えると、彼が何か手心を加えてユリアを送還者リストに入れたのかも知れなかった。
作品名:マトリョーシカ 作家名:Angie